誉の家
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誉の家、誉れの家(ほまれのいえ)は、特に第二次世界大戦前後の時期の日本において、その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現。戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを掲げることが一般的に行なわれていた。戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされる[1]。また、少国民歌として戦時中に作られた唱歌「お山の杉の子」の歌詞にもこの表現が用いられている[2]。
類似した表現
[編集]同様の表現としては、言葉を足した「誉れの家庭」[3]、「軍国誉れの家」[4]のほか、「名誉の家」[5][6][7]、「遺族の家」[5][8]、「勲の家」[9]などの表現も用いられた。
また、戦死者が出た訳ではないが、出征兵士を出した家に「応徴の家」と表札を掲げることもあった[10]。
表札
[編集]表札は材質や意匠が統一されていたわけではなく、記される文字にも多様性があり、以下のような例があった。
また、ステッカー様のものが用いられることもあったとされる[13]。
後年
[編集]1961年3月31日、当時のNETテレビ(後のテレビ朝日)でテレビドラマ「誉の家」(脚本・楠田芳子)が放送された[14]。
1992年、当時の埼玉県妻沼町(後に熊谷市の一部となった)が、町内の戦没者遺族会を構成する498世帯に「誉れの家・妻沼町」と記され、日の丸と旭日旗があしらわれた、7cm×17cm 銅板製の「表札」を無料配布し、議論を呼んだ[6]。
脚注
[編集]- ^ “きのう ~遺族会の歩み~”. 日本遺族会. 2015年12月12日閲覧。
- ^ “お山の杉の子 日本の童謡・唱歌”. 世界の民謡・童謡. 2015年12月12日閲覧。
- ^ “譽れの家庭を訪ふ”. 読売新聞・夕刊: p. 2. (1937年10月19日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “[気流・日曜の広場]戦後 「軍国誉れの家」子が死に、父母も”. 読売新聞・大阪朝刊・和歌山: p. 4. (1979年8月12日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ a b c “「遺族の家」票を寄贈 玄関わきに戦後62年間 橋本の坂口さん”. 読売新聞・大阪朝刊・和歌山: p. 34. (2007年8月24日). "... 第2次世界大戦で家族が戦死、負傷したことを示す2枚の門標を同市立郷土資料館に寄贈した。 1枚はアルミ板に「遺族の家」と書かれた菊の紋章入り(縦16センチ、横5センチ)。もう1枚は「大日本傷痍(しょうい)軍人会々員」と書かれた桜印入り(縦15センチ、横3・7センチ)。... 門標は「名誉の家」の証しとして、国から町役場を通じて届けられ、戦後62年間、玄関わきに掲げてきた。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ a b “戦没遺族に「誉れの家」の表札を無料配布 「時代錯誤」の声も/埼玉・妻沼町”. 読売新聞・東京朝刊: p. 26. (1992年9月27日). "埼玉県妻沼町 ... と同町社会福祉協議会 ... が今年八月、戦没者の永代供養と遺族の誇りを象徴するためとして、日の丸と旭日旗をあしらった「表札」を同町戦没者遺族会の全会員四百九十八世帯に無料配布していたことが、二十六日わかった。遺族の間では「英霊を慰める気持ちにふさわしい」と掲示する人が多いものの、「時代錯誤。アジアの人が見たらどう思うか」との声や、「戦中・戦後の一時期、軍人家庭に掲示された表札『名誉の家』の復活」という指摘もあり、論議を呼んでいる。表札は銅板製で、縦約十七センチ、横約七センチ。日の丸と旭日旗の下に「誉れの家・妻沼町」と書かれており、太平洋戦争などの戦死者遺族で構成する同遺族会を通じ配布した。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ ただし、「名誉の家」は、複数の出征者を出した家を指して用いられる例もあり、ここでいう「誉の家」だけを指すとは限らない。:“十八萬に上る名誉の家庭 兵役者が四名以上”. 朝日新聞・朝刊: p. 2. (1932年4月21日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “(語りつぐ戦争)共鳴 戦後世代の感想 歴史学び、平和の大切さ伝える”. 朝日新聞・夕刊・東京: p. 10. (2006年3月26日). "<遺族の家> 家族に戦死者が出ると、そのことを示す札が家の門柱や玄関に張られた。「誉れの家」という札も多く、市町村などが戦死者への哀悼の意を表すために配布したという。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “「消えゆく戦争の記憶」展:矛盾や本質を再考 捕虜強制労働の記録も 嘉麻・碓井平和祈念館”. 毎日新聞・福岡: p. 29. (2015年8月15日). "... 戦死者の家に掲げられた「勲の家」「誉の家」の木札を ..." - 毎索にて閲覧
- ^ “展示資料一覧(名古屋市青少年交流プラザ会場)” (PDF). 愛知県. 2015年12月12日閲覧。 “木札(応徴の家) 出征兵の家にかけられた木札。玄関の表札の隣など に掲げていた。”
- ^ “京丹後市立丹後古代の里資料館夏季企画展「丹後の村から見た戦争―村人と兵隊―」”. 京丹後市. 2015年12月12日閲覧。
- ^ 池内紀 (2013年5月23日). “池内 紀の旅みやげ(29) 誉の家─山梨県富士吉田”. 遊歩人. 2015年12月12日閲覧。 “大門の柱に鋲で打ちつけてあった。重厚な鉄製、両手でつつむほどの大きさ。タテの楕円形の上が王冠状のレリーフになっていて、そこに三文字が浮き彫りされている。左右に桜の花びらが四つばかり、よくみると下に波の文様が刻んである。”
- ^ “講演:へその緒つながった母子の遺体 東京大空襲体験・金田さん、戦争の悲惨さ訴え 前橋”. 毎日新聞・群馬: p. 22. (2015年8月15日). "18歳で海軍の志願兵となった兄が19歳で戦死した時には、婦人会の人が自宅に来て「おめでとうございます。名誉なことです」と言って「名誉の家」ステッカーを貼りに来た。" - 毎索にて閲覧
- ^ “[テレビ週評]時間余りの悲劇 「誉の家」のスタジオ座談会”. 読売新聞・朝刊: p. 5. (1961年4月5日) - ヨミダス歴史館にて閲覧