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西郷信尚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
西郷信尚
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
改名 純尚→信尚
官位 肥前(受領名)
氏族 肥前西郷氏
父母 父:西郷純堯、母有馬義貞姉(娘とも)
兄弟 信尚信久横田純家松浦鎮信正室[1]
松浦氏
純久
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西郷 信尚(さいごう のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将小野城主。

略歴

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天正5年(1577年)、6月下旬、父純堯は龍造寺隆信の伊佐早侵攻に際し、降伏を許され、純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。そのしばらく後に純堯が死去したため、信尚が西郷氏の家督を継いだ。

同15年(1587年)、豊臣秀吉九州平定に参陣しなかったため、秀吉から領地を没収される。信尚に変わって龍造寺家晴が伊佐早を治めることとなったが、同年に発生した肥後国人一揆を鎮圧するため、家晴が出陣した隙に信尚が挙兵、伊佐早城を奪回した[2]。秀吉は直ちに鎮圧すべく、小早川隆景の指揮の下、家晴や鍋島氏肥前有馬氏らに討伐を命じた。信尚方は陣の辻で龍造寺方に戦いを挑むも敗北する。この戦いで信尚は家晴に討たれたとも、妻の実家がある平戸へ逃れたともいわれている。

信尚の嫡男・純久松浦氏に仕え、500石を領した。  

西郷信尚が登場する作品

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  • 野呂邦暢『落城記』文藝春秋、1980年
    文學界』79年10月号に原型が発表され大幅加筆して完成した直後に野呂が急死、向田邦子が惚れこんでプロデューサーとしてドラマ化、「わが愛の城-落城記より-」として1980年10月1日に放送されたが、その前に向田が飛行機事故死した[3]

脚注

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  1. ^ 『史料綜覧』第9編之910 468頁
  2. ^ 『史料綜覧』第11編之912 182頁
  3. ^ テレビドラマデータベース

出典

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