西部戦線 (ソ連軍)
西部戦線(ロシア語: Западный фронт、西部方面軍、もしくは西部正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦初期~中期)にソ連西部に設置された赤軍の方面軍級部隊である。
概要
[編集]1941年6月22日、西部特別軍管区(第3軍、第4軍、第10軍、第13軍)に基づき創設。その後、第5軍、第11軍、第16軍(1943年5月1日から第11親衛軍)、第19軍、第20軍、第21軍、第22軍、第28軍、第29軍、第30軍(1943年5月1日から第10親衛軍)、第31軍、第32軍、第33軍、第39軍、第43軍、第49軍、第50軍、第61軍、第68軍、第1打撃軍、第3戦車軍、第4戦車軍、第1航空軍が編入された。
1941年中、戦線部隊は、白ロシアの戦略防勢作戦、スモレンスクの戦い、モスクワの戦いに参加した。モスクワ戦略攻勢作戦時、西部戦線は、カリーニン戦線及び南西戦線と協同で、ドイツ中央軍集団を撃破し、モスクワから100~250kmまで撃退した。
ルジェフ・ヴャゼム戦略作戦時、西部戦線は、カリーニン戦線と共に、北西戦線及びブリャンスク戦線の支援の下、敵を西方に80~250km撃退し、モスクワ州及びトゥーラ州、カリーニン州及びスモレンスク州の大部分を解放した。
1942年7月~8月、カリーニン戦線と共に、ルジェフ・スィチェフ作戦を発動し、ヴォルガ川左岸の敵橋頭堡を撃滅した。1943年のルジェフ・ヴャゼム作戦時、カリーニン戦線と共に、ドイツ軍の突出部を撃滅し、戦線を更に130~160km押し戻した。
1943年7月~8月、クルスクの戦い時、戦線左翼部隊が、ブリャンスク戦線及び中央戦線と共同でオリョール戦略作戦に参加すると同時に、8月~10月、戦線主力は、カリーニン戦線左翼と協同でスモレンスク作戦を発動した。その結果、200~250km西方に前進し、カリーニン州とスモレンスク州の一部を解放した。
1943年末~1944年初め、西部戦線は、ヴィテブスク及びオルシャン方面で攻勢を展開し、白ロシア東部に進出した。
1944年4月12日付最高司令部スタフカの命令に基づき、4月24日、西部戦線は、第3白ロシア戦線に改称された。配下の3個軍は、第2白ロシア戦線に移管された。
編制
[編集]- 第3軍 - 1941年6月22日から
- 第4軍 - 1941年6月22日から
- 第10軍 - 1941年6月22日から
- 第13軍 - 1941年6月24日から
- 第5軍
- 第11軍
- 第16軍(1943年5月1日から第11親衛軍)
- 第19軍
- 第20軍
- 第21軍
- 第22軍
- 第28軍
- 第29軍
- 第30軍(1943年5月1日から第10親衛軍)
- 第31軍
- 第32軍
- 第33軍
- 第39軍
- 第43軍
- 第49軍
- 第50軍
- 第61軍
- 第68軍
- 第1打撃軍
- 第3戦車軍
- 第4戦車軍
- 第1航空軍
指揮官
[編集]司令官:
- ドミトリー・パヴロフ上級大将(1941年6月)
- アンドレイ・エリョーメンコ中将(1941年6月~7月)
- セミョーン・ティモシェンコソ連邦元帥(1941年7月~9月)
- イワン・コーネフ中将(1941年9月~10月)
- ゲオルギー・ジューコフ上級大将(1941年10月~1942年8月)
- イワン・コーネフ大将(1942年8月~1943年2月)
- ワシーリー・ソコロフスキー大将(1943年2月~1944年4月)
- イワン・チェルニャホフスキー大将(1944年4月)
軍事会議議員:
- A.フォーミン軍団委員(1941年6月~7月)
- レフ・メフリス一等軍委員(1941年7月)
- パンテレイモン・ポノマレンコ白ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記(1941年7月)
- ニコライ・ブルガーニン中将(1941年7月~1943年12月)
- レフ・メフリス中将(1943年12月~1944年4月)
- V.マカロフ中将(1944年4月)
参謀長:
- V.クリモフスキー少将(1941年6月)
- G.マランディン中将(1941年7月)
- ワシーリー・ソコロフスキー中将(1941年7月~1942年1月)
- V.ゴルシュケーヴィチ少将(1942年1月~5月)
- ワシーリー・ソコロフスキー中将(1942年5月~1943年2月)
- A.ポクロフスキー中将(1943年2月~1944年4月)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 60 лет Победе(ロシア語。戦勝60周年に宛てられたロシア国防省公式のHP)