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西潟訥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
にしかた とつ / おそし / いたる

西潟 訥
生誕 1838年天保9年)
越後国蒲原郡臼井村(現・新潟県新潟市南区臼井
死没 1915年大正4年)4月22日享年78)
墓地 雑司ヶ谷霊園
国籍 日本の旗 日本
別名 八雲、冬蔵
職業 裁判官官吏
肩書き 従四位勲三等
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西潟 訥(にしかた とつ[1] / おそし[2][3] / いたる[4]1838年天保9年) - 1915年大正4年)4月22日)は明治時代日本裁判官文部官僚。旧名を冬蔵といい、明治初年には八雲(やぐも)とも称した[3]

来歴

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天保9年(1838年)、越後国蒲原郡臼井村の医家に生まれる。幼名を小林敏之助といい、父・小林左内は和泉村の名主を勤めた。父に従って漢学を修めたのち、早くから家を出て四方を遊歴。明治元年(1868年)、戊辰戦争が起こると有志を集めて北辰隊に参加し、一番小隊司令官となった[3]。北辰隊は同年7月に遠藤七郎が組織した農兵隊で、前原一誠奥平謙輔率いる長州干城隊のもと新政府軍に加わった[5]。またこの頃、を西潟に改め、八雲(やぐも)と名乗っている。11月、佐渡民政方となった奥平のもとで聴訟改革御用掛を命じられ、真野山で見つかった順徳上皇玉冠を朝納するため[6]翌明治2年(1869年)2月に京都にのぼったのち、4月に越後府雇(聴訟方勤・佐渡県兼勤)となった。7月に佐渡県が独立すると北辰隊員は相次いで帰国したが、西潟は除隊となって新都東京に向かい、壬生基修らの引き立てにより同年11月に東京府権大属に就任[3]。明治4年(1871年)9月まで東京府に勤務した[7]

明治4年10月、文部省八等出仕となり、12月には学制取調掛を命じられた[7]。文部入省に先立って参議大隈重信に提出したとされる建白書が、学制成文や文部卿大木喬任の手元に遺された学制実施順序を記した文書と共通する内容であることから、西潟は学制の有力起草者の一人とも目されている[8]。翌年2月に文部省七等出仕(学務課・受付課受持)、6月に文部省六等出仕に進み、学制制定後の10月、文部少丞に就任[9]。明治6年(1873年)9月から第六第七大学区に派遣されて学制実施の状況調査と現地指導に当たった[10]。同年11月には中督学に就任。第六第七大学区督学事務取扱を命じられ、翌明治7年(1874年)4月に各大学区督学局が一局に合併された後も督学事務取扱を務めたが、9月に免官となった[11]

その後裁判官に転じ、明治8年(1875年)5月、六等判事に就任(明治10年6月、判事に更任)[12]東京上等裁判所に勤務した。明治17年(1884年)12月に一度非職となったものの、明治20年(1887年)5月には宮城控訴院評定官として復職[13]。明治23年(1890年)10月からは宮城控訴院部長を務め、明治31年(1898年)11月に大審院判事に転じた上で休職を命じられた[14]

大正4年(1915年4月22日享年78で死去[3]。漢籍・職務関係の写本類などの旧蔵資料を新潟県立図書館が所蔵する[15]国語学者大矢透は外にあたる[16]

栄典

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著作

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脚注

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  1. ^ 『越佐人名辞書』。『新潟県人名辞書』。
  2. ^ 大矢博士自伝」(『国語と国文学』第5巻第7号、至文堂、1928年7月)90頁。
  3. ^ a b c d e 真水。
  4. ^ 佐々木隆 「「大木喬任関係文書」所収司法・検察関係者書翰翻刻」(『参考書誌研究』第66号、国立国会図書館、2007年3月NAID 40015326636)4頁。
  5. ^ 田中惣五郎著 『明治維新運動人物考』 東洋書館、1941年6月、31-41頁
  6. ^ 前掲 「大矢博士自伝」 92-93頁。
  7. ^ a b 尾形裕康著 『学制成立史の研究』 校倉書房、1973年3月、149頁。
  8. ^ 倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、384-391頁。伊藤彌彦著 『未完成の維新革命 : 学校・社会・宗教』 萌書房、2011年3月、ISBN 9784860650575、42-45頁。
  9. ^ 『太政官日誌』明治5年第10号、2丁表。明治5年2月11日文部省達(内閣記録局編輯 『法規分類大全第一編 官職門十四』 1891年2月、62頁)。『太政官日誌』明治5年第48号、4丁表同誌明治5年第85号、1頁
  10. ^ 前掲倉沢(1973)、580-581頁。倉沢剛著 『小学校の歴史I : 学制期小学校政策の発足過程』 ジャパン・ライブラリ・ビューロー、1963年12月、387-393頁。
  11. ^ 『太政官日誌』明治6年第151号、10頁。中島三夫著 『長三洲』 中島三夫、1979年2月、228頁写真。前掲倉沢(1973)、584頁。『太政官日誌』明治7年第133号、2頁
  12. ^ 『太政官日誌』明治8年第59号、4頁。『東京日日新聞』第1673号、1877年7月2日、1面。
  13. ^ 『官報』第443号、1884年12月17日、4頁同誌第1173号、1887年5月30日、285頁同誌第1174号、1887年5月31日、299頁
  14. ^ 『官報』第2204号、1890年11月1日、10頁同誌第4609号、1898年11月9日、82-83頁
  15. ^ 新潟県立図書館郷土コレクション 郷土文庫データベース新潟県立図書館、2015年11月1日閲覧。
  16. ^ 前掲 「大矢博士自伝」 90頁。
  17. ^ 『太政官日誌』明治6年第22号、4頁。
  18. ^ 『太政官日誌』明治7年第133号、2頁
  19. ^ 『太政官日誌』明治8年第119号、8頁
  20. ^ 『東京日日新聞』第3288号、1882年11月27日、1面。
  21. ^ 『東京日日新聞』第3322号、1883年1月11日、1面。
  22. ^ 『官報』第1941号、1889年12月16日、161頁
  23. ^ 『官報』第2102号、1890年7月3日、25頁
  24. ^ 『官報』第3453号、1895年1月4日、4頁
  25. ^ 『官報』第4499号、1898年6月30日、404頁
  26. ^ 『官報』第4636号、1898年12月12日、129頁
  27. ^ 内閣文庫所蔵。同年12月発行の明治6年第7号とは別のもの。佐藤秀夫著 『教育の文化史 3 史実の検証』 阿吽社、2005年3月、ISBN 4900590827、125頁参照。

参考文献

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  • 「西潟訥」(村島靖雄編 『越佐人名辞書』 越佐人名辞書刊行会、1939年7月)
    • 村島靖雄編 『越佐人名辞書』 歴史図書社、1974年5月
  • 「西潟訥」(金子信尚著 『新潟県人名辞書』 新潟県人名辞書編纂事務所、1941年12月)
  • 真水淳 「解題」(今泉鐸次郎ほか編 『越佐叢書 第九巻』 野島出版、1976年7月、325-326頁)

関連文献

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  • 谷久弥 「人物を中心とした新潟県教育郷土史」(文部省大臣官房編 『文部時報』第1127号、1971年5月)
    • 文部省大臣官房調査統計課編 『人物を中心とした 教育郷土史』 ぎょうせい、1972年9月
  • 谷久弥 「西潟訥」(新潟日報事業社編 『新潟県大百科事典 下巻』 新潟日報事業社、1977年1月)
  • 和田右苗 「西潟訥」(野島出版編集部編 『新潟県県民百科事典』 野島出版、1977年10月)
  • 「西潟訥」(日本歴史学会編 『明治維新人名辞典』 吉川弘文館、1981年9月、ISBN 4642031146
  • 唐沢富太郎 「西潟訥 : 新潟県教育の開眼者」(唐沢富太郎編著 『図説 教育人物事典 : 日本教育史のなかの教育者群像 下巻』 ぎょうせい、1984年7月)

外部リンク

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