西明寺城
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西明寺城 (栃木県) | |
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別名 | 高館城 |
城郭構造 | 山城[1] |
築城主 | 不詳 |
築城年 | 鎌倉時代[1] |
主な城主 | 益子氏 |
廃城年 | 1590年(天正18年)[1] |
遺構 | 郭、土塁、空堀[1] |
指定文化財 | 町指定史跡[2] |
位置 | 北緯36度27分16秒 東経140度7分14秒 / 北緯36.45444度 東経140.12056度座標: 北緯36度27分16秒 東経140度7分14秒 / 北緯36.45444度 東経140.12056度 |
地図 |
西明寺城(さいみょうじじょう)は、栃木県芳賀郡益子町にあった中世の日本の城。宇都宮氏の家臣益子氏の居城だった。別名高館城。
歴史・沿革
[編集]西明寺城の起源は、西明寺のある高館山に京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構えた事から始まった[要出典][3]。
南北朝時代には、『結城文書』に「伊佐中郡御城、西明寺城、当城候」と記されており、関城、大宝城、伊佐城、伊佐中郡御城などと並んで、関東六城の一つに数えられ[2][4]南朝方の最北端の拠点であった[1]。その後、北朝方の攻撃を何度か耐えたが、1352年(正平7年)に関東六城の中で最後に落城した[2]。
戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退への道を歩むことになる。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった[要出典]。
1590年(天正18年)[1][5]、業を煮やした主君宇都宮国綱は大規模な討伐を実行し、益子家宗を誅殺して益子氏の領地を没収した。この際に廃城となる[1]。
構造
[編集]西明寺城跡は現在、西明寺の寺域となっている。本堂脇の遊歩道を登っていくと本丸跡に展望台が設置されている。また、空堀なども散見される。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 児玉幸多 監修、坪井清足 監修、平井聖 編修、村井益男 編修、村田修三 編修、峰岸純夫、菊池卓『日本城郭大系 第四巻 茨城 栃木 群馬』新人物往来社、1979年、255頁。ISBN 4404010117。
- ^ a b c 益子町. “文化財詳細 高館城跡(西明寺城)”. 益子町 生涯学習課. 2017年7月26日閲覧。
- ^ 案内板には『下野国誌』に康平年間に紀権守正隆によって築城されたとあるが、この記載は『日本城郭大系』では城郭の構造上益子古城のことだとしている
- ^ 『大日本史』で紹介されていると案内板の記載あり
- ^ 案内板には1587年(天正17年)3月とあるが和暦と整合性がない