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西川鯉三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西川 鯉三郎(にしかわ こいさぶろう、1823年1月18日文政6年11月30日) - 1900年明治33年)2月25日)は、江戸出身の歌舞伎役者舞踊家振付師名古屋西川流流祖、初代家元。号は和光、西川和光とも称した。

西川にしかわ 鯉三郎こいさぶろう
生年月日 1823年1月18日
没年月日 (1900-02-25) 1900年2月25日(77歳没)
本名 岸田◯◯◯
襲名歴 1. 關二蔵
2. 西川仁藏
3. 二世・市川鯉三郎
4. 初世・西川鯉三郎
別名 西川和光
出身地 日本の旗 日本 江戸田所町

(現:中央区日本橋堀留町

岸田久兵衛
お傳
篠塚力寿
不明

来歴

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江戸田所町に生まれた。阿波藍玉商・岸田久兵衛とお傳の子[1]。父・久兵衛は阿波(現・徳島県)育ちだけに浄瑠璃が好きで、大阪に出てその道の芸人に交わり追々熟達するにつれ、専門の太夫となり、文政の初年に江戸に出て、出処不明のお傳と呼ばれた女の義太夫語りと夫婦になって田所町に住み、共稼ぎに芸を励んでいたうちに文政6年、一児が誕生した。それが鯉三郎だった[1]

隣家が西川流三世西川扇藏宅であったので、鯉三郎は西川流の舞踊稽古を勧められた。2代目關三十郎の門弟となって梨園に入り、江戸の歌舞伎俳優として關二蔵(関二蔵)を名乗った。西川流四世西川扇藏の門弟となって西川仁藏と名乗った。13歳から七代目市川團十郎の門弟となり、2世市川鯉三郎とも名乗ったが、役者としての素質がないことが分かり振付に転じた[1]

尾張藩重臣織田氏の娘・織田いく西川嘉義の養母)から名古屋に招かれ、1841年、18歳で父とともに名古屋に移住した[1]1846年篠塚力寿と結婚して京舞篠塚流坂東流坂東秀代に舞踊を、他にも能や狂言を学んで長所を取り入れ、舞踊一筋に打ち込んだ。のちに力寿とは離婚。1856年、33歳の頃から西川和光の名で、名古屋の芝居小屋の振付師として活躍した。

1860年1月19日、37歳で御免踊指南の公許を得る[1]。織田いくが創流を支援し「名古屋西川流」樹立。織田いくは弟子の第一号となって、1863年に名取り「西川幾」となる。西川鯉三郎は名古屋の劇場振付けを一手に収めることになり、隆盛を極め、舞踊百番衣装附、舞踊譜を作るなど、功績を残した。西川幾の養女・嘉義も1877年明治10年)名取り「西川嘉義」となり、美人舞踊家としての名声とともに名古屋西川流が広まる。明治時代の西川鯉三郎や西川嘉義などの芸能者の活躍が「芸どころ名古屋」の礎となる。

鯉三郎没後は鯉三郎の跡目争いが起こり、西川嘉義と「合議制」を持ち出した幾の弟子西川石松[2][2]が対抗し、幾・嘉義派と石松派が正面衝突した[3][4]。精神的に追いつめられた西川嘉義は1921年(大正10年)に58歳で自殺した。著名な舞踊家で、士族織田氏の娘である西川嘉義の死で、流派としての大きなトラブルとなって社会的に知られることとなり、1900年に初代鯉三郎亡き後は40年以上も家元空位であった。鯉三郎の名跡も40年間継がれることがなかった。

生年については1824年(文政7)、没年は1899年(明治32年)とも。

脚注

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  1. ^ a b c d 『少年時に観た歌舞伎の追憶』坪内逍遥 著、日本演芸合資会社出版部、1920年、pp47-53(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年5月28日閲覧。
  2. ^ 小寺融吉. “日本の舞踊(創元選書75)234頁「西川石松と花子」”. 創元社、昭和23/. 2022年7月4日閲覧。
  3. ^ 北見昌朗. “愛知千年企業 大正時代編 <コラム>日本国中を席巻した“名古屋美人””. 北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所. 2022年7月4日閲覧。
  4. ^ 田中加代. “日本の伝統芸能における「芸」の伝承に関する教育思想史的考察 -日本舞踊家西川鯉三郎の芸道教育の系譜および特色をめぐって-”. 愛国学園短期大学. 2022年7月4日閲覧。

参考文献

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  • 西川鯉三郎門人番組」 錦絵 国立劇場所蔵 ※明治16年
  • 「西川鯉三郎免許の跡」名古屋市教育委員会 資料[3][4]
  • 関山和夫著、名古屋市経済局観光貿易課 編『名古屋の芸能史跡 <史跡観光シリーズ>』(1983年)名古屋市。 
  • 名古屋市役所 編『名古屋市史人物編 下巻』(1934年5月28日川瀬書店発行の復刻版)国書刊行会、1981年10月20日。 
  • 『日本の舞踊』小寺融吉、1941年5月15日、創元社。
  • 小寺融吉 編『日本の舞踊』(1948版)創元社(創元選書75)。NDLJP:1125393 [5]
  • 服部鉦太郎「西川流外伝天才舞踊家 西川嘉義」『郷土文化』第40巻第3号、名古屋郷土文化会、1986年3月、NDLJP:6045176 
  • 尾崎久弥『西川嘉義ー坪内逍遥を悔しがらせた最大級ー(名古屋芸能史 後編第30章)』名古屋市教育委員会〈名古屋叢書54〉、1971年12月20日。 
  • 長田若子 編『ホットマインド 名古屋の宝生流能楽師鬼頭嘉男が受け継いだもの』ブックショップマイタウン、2012年1月1日。 
  • 藤田洋『日本舞踊ハンドブック』2001年。ISBN 4-385-41046-1 
  • 演劇出版社 編『日本舞踊入門』2004年。ISBN 4-900256-89-7 
  • 「西川流外伝天才舞踊家 西川嘉義」名古屋郷土文化会 / 服部鉦太郎

関連項目

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外部リンク

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