西岡逾明
西岡 逾明(にしおか ゆめい/ゆうめい 、天保6年〈1835年〉[1][注釈 1] - 大正元年〈1912年〉[2])は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士)、明治時代の政治家、裁判官、文人。別名は周碩[注釈 2]。字は子学[注釈 3]・士学[3]。号は宜軒[3]。位階は従三位・勲二等[3]。
来歴
[編集]生い立ち・医人として
[編集]佐賀藩儒医の西岡春益の長男として生まれる[注釈 4][3]。切米140石 (内加米5石)[4]。なお、父の西岡春益が調合に加わった佐賀藩の名薬「野中烏犀圓」は、滋養強壮・肉体疲労薬として現在も使われている[5]。
藩校弘道館で学んだ後、万延・文久年間に京・大阪に遊学する[3]。安政6年3月(1859年)から、適塾にて学ぶ[6]。文久2年(1862年)芦島で行われた解剖に、第二胸部解剖担当として参加する。[6]。
鳥羽・伏見の戦いの際には、負傷者であれば誰彼かまわず治療していたため、幕府役人から攘夷派の一味と疑われ、佐賀藩に帰国することになったという[3]。
霞が関にある「江藤新平君遭難遺址碑」によれば、江藤新平が明治2年(1869年)に佐賀藩邸の外で佐賀藩の下級武士に襲われた時に、阪部長照・荒木博臣(森鴎外の後妻である森志げの父親)と共に助けに入っている[7]。
戊辰戦争の際に、羽州へ出張[3]。参謀(軍監)を務め、北越秋田戦争を戦ったとみられる[8]。
官吏・裁判官として
[編集]酒田民生局長官、後に酒田県大参事を務める(知事を代行)[9]。しかし農民が起こした減税運動「天狗運動」が静まらず、失政の責めを問われて、白石按察使府(あぜちふ)に謹慎を命じられる[9]。
明治3年には東京府少権参事として東京に赴任。これは前東京府知事だった大木喬任が呼んだと、久米邦武の回顧録にある[8]。その後、東京府権大参事[3]。
明治5年(1872年)左院使節団として立法機関などの調査のため渡欧(当時中議官)。パリで統計学者・経済学者のモーリス・ブロック博士に師事する[3]。この左院使節団には他に、高崎正風、安川繁成、小室信夫、鈴木貫一がいた。なお、その前年である明治4年(1871年)に江藤新平が左院副議長となっている。
渡仏中に岩倉使節団と合流し、木戸孝允に講義ノートを提示。20日間に渡って面会する[10]。このノートは、岩倉使節団副使である木戸孝允が立憲制を考えるに当たって大きな示唆を与えたと言われている[3]。またブロック博士は、日本の民選議院設立を時期尚早と考え、岩倉具視使節にその旨を建言したという。岩倉使節団到着後は、木戸孝允と共にブロック博士を交えた学習を続けた。博士は木戸孝允に日本では三権分立である必要はないこと、西欧諸国の文明開化と言論・出版統制の関係、フランスの国立銀行、貨幣制度なども教示したといわれている[8]。
帰国後は大審院判事を務めた後、宮城・長崎・函館などの控訴院長等を務めるなど、法曹界の要職を歴任する[3]。その間、広沢正臣参議暗殺事件にあたって臨時裁判所別局の裁判官を務め,1875年7月13日に被告人らに無罪の言渡しをしている[11]。
後に病気のため鎌倉に隠棲し、他の文人たちと交わりながら自身も多くの作品を残した。
文人・能書家として
[編集]文人・能書家としても知られる。
河野鉄兜に学んで詩才を発揮。明治4年(1871年)の旧雨社(漢詩文サークル)設立に際して同人となり、重野安繹、藤野海南らと交わる[1]。
旧雨社の他の同人としては、松平春岳、岡鹿門、鷲津毅堂、阪谷朗廬、南摩綱紀(羽峯)、木原老谷、那珂通高(梧楼)、小山春山、川田甕江、中村正直(敬宇)、秋月種樹(樂山)、村山拙軒、萩原西疇、依田学海、信夫恕軒、亀谷省軒、天岸静堂、平田虚舟、青山清幽、岡本韋庵、島田篁村、股野琢(藍田)、日下勺水、小野湖山、岡松甕谷、座光寺半雲、四谷穂峰、小永井五八郎(小舟)・森春濤らがいた[12]。
明治11年(1878年)の向山黄村・杉浦梅潭らの晩翠吟社開設とともに参じて、以後明治39年(1906年)の同社解散まで有力な同人として活動[1]。
晩翠吟社の他の同人としては、田邊新之助(松坡)・巌谷一六・古沢滋(介堂)・田辺太一(蓮舟)らがいた[12]。
能に造詣があり、能楽師の梅若実と近しい間柄であった[13]。
佐賀県有田にある陶山神社には、香蘭社・深川製磁の創業者である深川栄左ヱ門(8代)を称える「深川君之碑」がある。この碑は題字を大隈重信、撰文を久米邦武、書を西岡逾明が担当している。なお、深川栄左ヱ門(8代)とは、有田焼の輸出に熱意を見せる栄左ヱ門に対して、同席した久米邦武と父西岡春益が大いに賛同したという縁がある[14]。
他に書家として筆をとった石碑や墓碑として、北海道北斗市にある有川大神宮の「鎮座五百年祭碑」、広島県大竹市にある「大竹邨閘堰碑」(二階堂三郎左衛門顕彰碑:近衛忠煕題額、大隈重信撰文、西岡逾明書)、石丸安世墓域内に立つ「経綸之碑」(大隈重信篆額、久米邦武撰文、西岡逾明書)、牟田口元則・美尾墓、小金原開墾碑(大木喬任篆額)、善光寺内にある「翠山先生岡本君碑」(牧野忠篤題額、城井寿彰撰文、西岡逾明書)、宮城県仙台市のコレラ碑(叢塚)等がある。
その他
[編集]函館馬車鉄道の創立に当たって支援し、副社長を務めている。
家族
[編集]娘のきみは、巌谷一六の長男である巌谷立太郎に嫁いでいる[15]。
長男の西岡英夫は、児童文学家である巖谷小波(巌谷立太郎の弟)の影響もあって、日本統治下の台湾で児童文学研究家として活動[15]。なお、妻は日本統治下の台湾で活動した実業家、後宮信太郎の妹末野[15]【季野】[16]である。
三女の貴美子は、関重広の父で海軍少将の関重忠の後妻に入っている。
四女のときは、東京府士族で三菱製鉄常務取締役の堀悌三郎に嫁ぎ、資産家で三菱銀行員の堀峰一郞を産んでいる[16]。
栄典・授章・授賞
[編集]著書
[編集]- 舊令参照 罰則全書「第一分冊」「第二分冊」(信山社出版)ISBN 9784797272895
- 国立国会図書館デジタルコレクション 旧雨詩抄P20【宜軒西岡逾明(字子學 肥前人)】NDLJP:893556
- 「能樂の起原」(雑誌「能樂」寄稿文)
- 「明治功臣詩集」(東洋詩歌学会)国立国会図書館書誌ID:000000516539
- 「明治詩鈔(巻中)」(国文学資料館)【宜軒西岡逾明】明治詩鈔 - 国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベース
- 「明治二百五十家絶句」明治35年3月刊(博文館)【西岡宜軒】全国書誌番号:41014484
- 明治文学全集62 明治漢詩文集 昭和58年刊(筑摩書房)ISBN 978-4-480-10362-8
年表
[編集]- 明治元年11月2日:羽州出張中、軍監となる
- 明治元年12月23日:酒田民生局政局取締役並びに軍監を兼務
- 明治2年7月20日:酒田県大参事
- 明治2年11月11日:酒田県大参事更迭
- 明治2年12月26日:東京府権小参事
- 明治3年6月24:東京府小参事、従六位
- 明治4年1月15日:東京府権大参事、正六位
- 明治4年9月12日:小議官
- 明治4年11月14日:中議官
- 明治4年12月8日:従五位
- 明治5年1月20日:各国視察へ出発
- 明治5年10月8日:二等議官
- 明治6年9月6日:日本へ帰国
- 明治8年5月9年:四等判事
- 明治11年4月18日:判事
- 明治14年10月15日:宮城控訴院裁判所長
- 明治15年3月13日:宮城重罪裁判所長
- 明治15年8月14日:山形重罪裁判所長
- 明治15月27日:福島重罪裁判所長
- 明治17年2月6日:長崎重罪裁判所長
- 明治19年5月10日:長崎控訴院長
- 明治19年7月8日:正五位
- 明治19年10月28:従四位
- 明治20年11月8日:大審院刑事第一局長
- 明治21年2月17日:高等法院陪席裁判官
- 明治23年8月21日:函館控訴院長
- 明治25年2月13日:正四位
- 明治26年11月24日:休職
- 明治26年12月27日:従三位
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 明治時代史大辞典
- ^ 佐賀偉人伝[出典無効]
- ^ a b c d e f g h i j k l m 佐賀県人名辞典
- ^ 佐賀県立図書館データベース(外部リンク参照)
- ^ 佐賀・江戸の名薬(4)烏犀園 - くすり100話(外部リンク参照)
- ^ a b 佐賀藩の医学史
- ^ 江藤新平君遭難遺址碑(外部リンク参照)
- ^ a b c 米欧亜回覧の会 歴史部会2月度部会報告「司法省総括と左院総括」(外部リンク参照)
- ^ a b 酒田市立資料館 第196回企画展「酒田まつりの山鉾と、画人・文人の掛軸(外部リンク参照)
- ^ 明治初年における左院の西欧視察団(外部リンク参照)
- ^ 弁護人第1号・荒木博臣のこと(弁護士 齊藤雅俊)(外部リンク参照)
- ^ a b 管説日本漢文學史略(外部リンク参照)
- ^ 梅若実日記
- ^ おんなの有田皿山さんぽ史(外部リンク参照)
- ^ a b c 台湾最初の児童文学家-西岡英夫研究序説(外部リンク参照)
- ^ a b c 『人事興信録データベース』(外部リンク参照)
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- 佐賀県人名辞典
- 叙勲裁可書(休職判事従三位勲三等西岡逾明)-経歴書付
- 国立公文書館 アジア歴史資料センター 岩倉使節団(左院視察団)-写真付
- 国立公文書館 アジア歴史資料センター
- 佐賀偉人伝[出典無効]
- 佐賀医学史研究会報 110 号
- 佐賀県立図書館データベース:分限帳(着到)(18.【西岡周碩】、5・6父西岡春益)
- 佐賀県立図書館データベース:江藤家資料(西岡逾明書簡)
- Waseda University Library 大隈重信宛書簡
- 宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 木戸家文書(人184)木戸孝允宛書簡
- 創泉堂出版 岩倉具視関係文書(第2期)―主な収録史料(目次) リール2 第二〇巻 仏国取調報告書
- 江藤新平君遭難遺址碑
- 緒方洪庵-適塾出身者【西岡周碩】
- 医学史の世界-佐貫藩医三枝俊徳日記-芦島での解剖【西岡周碩】
- 荘内日報社-酒田時代について【西岡周碩】
- 酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ 酒田市年表:明治期【西岡周碩】
- 酒田市立図書館/光丘文庫デジタルアーカイブ 酒田市年表:大正期【西岡周碩】
- 酒田市立資料館 第196回企画展「酒田まつりの山鉾と、画人・文人の掛軸」【西岡周碩】
- 明治3年の東京府職員録 小泉雅弘 P241、P244、P257【西岡周碩藤原逾明】
- 日本戦前官僚辞典-太政官時代Ⅲ:左院中議官・左院小議官・左院ニ等議官
- 松尾正人「明治初年における左院の西欧視察団」『季刊国際政治』第81号、日本国際政治学会、1986年3月、161-178頁、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.81_161、ISSN 04542215、NAID 40000597005。
- 長井純市「木戸孝允覚書--分権論を中心として」『法政史学』第50号、法政大学史学会、1998年3月、34-61頁、doi:10.15002/00011261、ISSN 03868893、NAID 120005614186。
- 米欧亜回覧の会 歴史部会:2月度部会報告「司法省総括と左院総括」
- 「左院拡張論 [書写資料] / 左院議官西岡逾明・左院議官高崎正風」1873年。
- 総務庁統計局 統計図書館ミニトピックス№25 「国家の存するところ統計あり…その原書は?」(モーリス・ブロックについて)
- 陶山神社 深川栄左衛門碑
- 鎮座五百年祭碑(有川大神宮)
- 大竹邨閘堰碑(二階堂三郎左衛門顕彰碑)
- 山本読書室 仮目録 統合電子版 2722 小金原開墾碑
- 翠山先生岡本君碑~謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド
- 宮城の医蹟-コレラ碑(叢塚)
- 東京文化財研究所【西岡宜軒】
- 管説日本漢文學史略:明治以後【西岡宜軒:旧雨社】
- 梅若実日記
- 鶴山書院報第8号 多久出身の藩医・西岡春益と佐賀の漢学者集団(二)【西岡春益】
- おんなの有田皿山さんぽ史(夜明けの主役)【父:西岡春益】
- 台湾最初の児童文学家-西岡英夫研究序説 中島利郎著【長男:西岡英夫】
- 日本統治期台湾文学研究 台湾の児童文学と日本人 中島利郎著(目次) 【長男:西岡英夫】
- 『人事興信禄』データベース(堀田正昭:次女千萬)
- 『人事興信禄』データベース(堀峰一郎母:四女とき)
公職 | ||
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先代 野村維章 |
函館控訴院長 1890年 - 1893年 |
次代 高木勤 |
先代 児島惟謙 長崎控訴裁判所長 |
長崎控訴院長 1886年 - 1887年 長崎控訴裁判所長 1883年 - 1886年 |
次代 人見恒民 |
先代 坂本政均 宮城上等裁判所長心得 |
宮城控訴裁判所長 1881年 - 1883年 |
次代 中島錫胤 |