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西山玄道

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西山 玄道
天保12年(1841年)森高雅筆、名古屋市東山植物園所蔵。自賛「老境唯書巻。倦来時立庭。歳端正服坐。先拝聖人経。」[1]
時代 江戸時代
生誕 宝暦2年8月3日1752年9月10日
死没 天保14年4月26日1843年5月25日午前)
改名 伊藤代吉[2]→西山玄道
別名 諱:清貞、号:松隠[3]
戒名 杏岳浄林居士[3]
墓所 久々利友円寺、八事神葬墓地[3]
主君 徳川斉朝斉温千村仲雄
尾張藩
氏族 伊藤磯右衛門家、西山家
父母 伊藤長救里農西山養玄
兄弟 伊藤宇兵衛嘉左衛門曽茂、玄道西山養運
千代、多喜
大河内存真きい伊藤圭介川瀬与兵衛西山養節とみ春成
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西山 玄道(にしやま げんどう)は、江戸時代後期の尾張藩医師美濃国久々利村岐阜県可児市久々利)出身。兼山村(現・同市兼山)で西山家養子として医業を始め、名古屋に出て尾張藩御目見・御用懸医師を務めた。隠居後、久々利村旗本千村平右衛門家侍医。藩奥医師大河内存真東京大学教授伊藤圭介の実父。晩年西山本家に不幸が続き、家名存続に奔走した。

生涯

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生い立ち

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宝暦2年(1752年)8月3日[4]美濃国可児郡久々利村に伊藤長救の末男として生まれた[3]明和元年(1764年)春兼山村医西山養玄の養子となり[3]、明和5年(1768年)医業を開始した[5]

名古屋時代

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天明6年(1786年)6月名古屋七間町一丁目、寛政4年(1792年)3月呉服町一丁目に移り[3]石川香山水谷豊文野間休山に学んだ[5]文化3年(1806年)6月藩主徳川斉朝御目見し、文化6年(1809年)6月7日浅野春道の跡目として御用懸医師に就任した[3]

文化頃長男大河内存真と共に浅野春道、水谷豊文大窪太兵衛石黒済庵、岡林清達、柴田洞元、浅野文達等と本草会を開き、後に存真により嘗百社と命名された[6]

文政6年(1823年)12月老齢のため隠居し、藩主が病気の時に出勤した[5]

隠居後

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兼山村の西山本家は義弟養運が継ぐも、文化7年(1810年)夭折、その子養哲も文政8年(1825年)夭折し、遺児太中の後見者となった[7]。母方の伯父仙石三郎左衛門に預けた後、自身の家に引き取って医業を教え、文政12年(1829年)17歳で京都に遊学させたが、翌年春発病して6月死去し、本家筋は断絶となった[7]

同年8月西山家存続のため、次男伊藤圭介門人大岩養見(養節)を養子に取り、名古屋の家で医業を教えた[7]天保3年(1832年)6月旧師野間休山の子野間昌甫により病用勤め辞職が出願され[5]、11月兼山村に養節を連れて医業を始めさせた[7]。しかし、御嶽宿伏見宿飯盛女を家に連れ込み、偽証文で借金を作るなど素行が悪く、天保4年(1833年)1月2日大病を患うと、西山家には障りが取り憑いているとして大岩家に呼び戻され、間もなく死去した[7]

玄道は名古屋の家を次男圭介に相続後、兼山村に隠居していたが、その後故郷久々利村に移り、千村平右衛門家侍医を務めた[8]。縁家浅井家とみを養女として西山春成を婿養子に迎え、天保7年(1836年)9月千村家侍医を継がせ、西山家の存続が果たされた[7]。12月兼山村の旧宅を町代藤掛文七に売却した[7]

天保8年(1837年)頃には足腰が弱ったため呉服町の伊藤家宅に滞在している[8]。天保14年(1843年)4月25日夜七つ時頃92歳で病死した[9]

家族

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野間たき画像。「年つミてさかへし宿の寿ハ千代をたのしむ松下庵」

伊藤家

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先祖は美濃国岩村藩から久々利村に移り、代々伊藤磯右衛門と称して旗本千村平右衛門家に仕えた[3]

  • 父:3代伊藤磯右衛門長救 – 寛政3年(1791年)83歳で没[8]
  • 母:里農 - 2代西山養節娘[10]
  • 兄:伊藤宇兵衛[10]
    • 甥:伊藤慶治 - 久々利村千村家侍医8代浅井立意弟[7]
  • 兄:伊藤嘉左衛門[8]
  • 姉:曽茂(浄貞) - 7代浅井玄安妻[10]
    • 甥:8代浅井立意[8]
  • 次男:伊藤圭介 - 東京大学教授。

西山家

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初代西山養庵(享保7年(1722年)4月没)は恵那郡岩村西山家7代目で、貞享2年(1685年)兼山村に移住し、2代養節(明和4年(1767年)3月没)、3代養玄と医業を営んだ[7]

  • 養父:3代西山養玄 - 享和3年(1803年)6月没[7]
    • 義弟:4代西山養運 – 文化7年(1810年)8月没[7]
      • 義甥:5代西山養玄(後に養哲) - 重病により文政8年(1825年)35歳で没[7]
        • 義大甥:6代西山太中 – 文政13年(1830年)6月18歳で没[7]
  • 先妻:千代 - 足立氏。寛政4年(1792年)3月19日産褥中に死去[7]
  • 後妻:たき(恵祥) - 師野間林庵家庶流伊右衛門利貞四女[5]嘉永5年12月12日(1853年)86歳で没[3]

脚注

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  1. ^ 斎藤 2008, p. 5.
  2. ^ 岸野 2003, p. 2.
  3. ^ a b c d e f g h i 吉川 1955, pp. 58–61.
  4. ^ a b 吉川 1955, pp. 4–5.
  5. ^ a b c d e 西島 2008, pp. 55–57.
  6. ^ 磯野 & 田中 2010, p. 24.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 杉村 2010.
  8. ^ a b c d e 杉村 2004.
  9. ^ 岸野 2003, p. 8.
  10. ^ a b c d e f 吉川 1955, p. 6.

参考文献

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  • 吉川芳秋『尾張郷土文化医科学史攷拾遺』尾張郷土文化医科学史攷刊行会、1955年。 
  • 杉村啓治「伊藤圭介と可児郡久々利の医師団」『錦窠翁日記』 10集、名古屋市東山植物園、2004年。 
  • 杉村啓治「西山家相続と伊藤圭介」『伊藤圭介日記』 16集、名古屋市東山植物園、2010年。 
  • 西島太郎「親子二代の門人 ―西山玄道・大河内存真―」『名古屋大学附属図書館 2008年春季特別展 濃尾の医術 ―尾張藩奥医師 野間家文書を中心に―』名古屋大学附属図書館研究開発室、2008年http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/event/tenji/2008haru/zuroku_2008noubi.pdf 
  • 斎藤夏来「伊藤圭介の自画自賛 ─春季特別展「濃尾の医術」余録─」『LIBST Newsletter』第13号、名古屋大学附属図書館研究開発室、2008年。 
  • 岸野俊彦「史料紹介「大河内存真一代勤書」」『名古屋芸術大学研究紀要』第24巻、名古屋芸術大学、2003年。 
  • 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、15-39頁、CRID 1050845762334986240 

外部リンク

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