藤重正従
藤重 正従 | |
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生誕 |
1888年10月7日 日本 愛媛県 |
死没 |
1946年7月17日(57歳没) フィリピン マニラ |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
藤重 正従(ふじしげ まさとし[1]、1888年(明治21年)10月7日[2] - 1946年(昭和21年)7月17日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]1888年(明治21年)に愛媛県で生まれた[2]。陸軍士官学校第24期卒業[2]。1937年(昭和12年)9月に台湾歩兵第1連隊補充隊長に就任し[1]、1939年(昭和14年)第24師団兵器部長(関東軍・第5軍)に転じ[1][3]、1940年(昭和15年)8月に陸軍歩兵大佐に進級した[1]。
1941年(昭和16年)8月25日に歩兵第17連隊長(関東軍・第20軍・第8師団・第8歩兵団)に就任し[2]、1944年(昭和19年)8月に第14軍隷下に編入され[2]、フィリピン転用が決定した[2]。3個中隊が引き抜かれ9個中隊編制となり[4]、9月にルソン島南部に出征した[4]。第8師団主力がマニラ東方に移駐したことから[4]、これをカモフラージュするために藤重は中将の階級章を付け[5]、17連隊を藤兵団と呼称して[5]、ルソン島南部にも有力な兵団が位置しているように偽装した[5]。1945年(昭和20年)1月に米軍がリンガエン湾に上陸した情報が伝わると[5]、現地の治安は急速に悪化しゲリラの活動が活発になったことから[5]、藤重はゲリラ粛清を指示し[5]、ゲリラとされた住民六千人以上が犠牲になったとされる[5]。3月になると米軍の攻撃が激しくなり[6]、タール湖東方の山岳地帯に逃げ込み[6]、終戦を迎え[6]、9月下旬に投降した[6]。この間6月10日に陸軍少将に進級している[1]。
終戦後は戦犯として逮捕され[6]、マニラ軍事裁判で住民虐殺の容疑で絞首刑の判決が下り[6]、1946年(昭和21年)7月17日に執行された[1][2][6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 伊藤禎 著『大東亜戦争 戦犯として処刑された陸軍将官36人列伝』展望社、2021年。ISBN 4885464056。