藤田吉亨
藤田 吉亨(ふじた よしはる[1] / よしゆき[2]、1839年7月18日(天保10年6月8日[3])- 1923年(大正12年)9月27日[2])は、幕末の大田原藩士、明治期の公吏・政治家。衆議院議員、栃木県那須郡大田原町長。旧姓・伊藤。幼名・銀之助[3]。
経歴
[編集]下野国那須郡大田原城下(栃木県[2]那須那大田原宿、大田原町を経て現大田原市)で、大田原藩士・伊藤買山[1](長貫[3])の末男[1](第五子[3])として生れ、同藩士・藤田六郎[1](吉一[3])の養子となる[1]。大田原藩校で学んだ[2][4]。同藩留守居添役、使番兼兼徒士頭、物頭兼寺社奉行を歴任[1][3]。戊辰戦争で旧幕府方と戦闘を行う[3]。その後、参政、少参事を務めた[1][2][3][4]。
1871年(明治4年2月)神祇官に出仕し宣教使に就任[3][4]。以後、宇都宮県学区取締、同県第五大区二小区戸長兼学校掛、栃木県第三大区一小区戸長を務めて帰郷[3]。1873年(明治6年)12月、栃木県第三大区七小区戸長に就任[3]。その後、同県15等出仕・真岡警察出張所在勤、6等警部・天明警察出張所詰、14等出仕・戸籍徴兵掛、8等属・庶務課在勤、那須郡長などを務めた[1][2][3][4]。1883年(明治16年)10月、三島通庸が栃木県令として赴任し、その主義主張に同意できず退官し帰郷した[3]。
1884年(明治17年)栃木県会議員に選出され[1][3]、徴兵参事員も務めた[2][4]。1889年(明治22年)大田原町初代町長となり[1]、1903年(明治36年)6代同町長に再任された[1]。
和田方正の死去に伴い、1895年(明治28年)5月に実施された第4回衆議院議員総選挙栃木県第4区補欠選挙で当選し[1][5][6]、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した[2][4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大久保利夫 『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第2編』 六法館、1890年。
- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。