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藤田吉亨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤田 吉亨(ふじた よしはる[1] / よしゆき[2]1839年7月18日(天保10年6月8日[3])- 1923年大正12年)9月27日[2])は、幕末大田原藩士、明治期の公吏・政治家衆議院議員栃木県那須郡大田原町長。旧姓・伊藤。幼名・銀之助[3]

経歴

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下野国那須郡大田原城下(栃木県[2]那須那大田原宿大田原町を経て現大田原市)で、大田原藩士・伊藤買山[1](長貫[3])の末男[1](第五子[3])として生れ、同藩士・藤田六郎[1](吉一[3])の養子となる[1]。大田原藩校で学んだ[2][4]。同藩留守居添役、使番兼兼徒士頭、物頭兼寺社奉行を歴任[1][3]戊辰戦争で旧幕府方と戦闘を行う[3]。その後、参政、少参事を務めた[1][2][3][4]

1871年(明治4年2月神祇官に出仕し宣教使に就任[3][4]。以後、宇都宮県学区取締、同県第五大区二小区戸長兼学校掛、栃木県第三大区一小区戸長を務めて帰郷[3]。1873年(明治6年)12月、栃木県第三大区七小区戸長に就任[3]。その後、同県15等出仕・真岡警察出張所在勤、6等警部・天明警察出張所詰、14等出仕・戸籍徴兵掛、8等属・庶務課在勤、那須郡長などを務めた[1][2][3][4]。1883年(明治16年)10月、三島通庸栃木県令として赴任し、その主義主張に同意できず退官し帰郷した[3]

1884年(明治17年)栃木県会議員に選出され[1][3]、徴兵参事員も務めた[2][4]。1889年(明治22年)大田原町初代町長となり[1]、1903年(明治36年)6代同町長に再任された[1]

和田方正の死去に伴い、1895年(明治28年)5月に実施された第4回衆議院議員総選挙栃木県第4区補欠選挙で当選し[1][5][6]進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した[2][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『栃木県歴史人物事典』520頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』556頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『衆議院議員候補者列伝』750-752頁。
  4. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』392頁。
  5. ^ 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』235頁。
  6. ^ 『官報』第3579号、明治28年6月6日。

参考文献

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  • 大久保利夫 『衆議院議員候補者列伝 : 一名・帝国名士叢伝 第2編』 六法館、1890年。
  • 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。