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藤本勝彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤本勝彦
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道
生年月日 1930年10月6日
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 東京藤本冨良(1950 - 1973)
初免許年 1950年4月2日
免許区分 平地
騎手引退日 1974年2月28日
1973年10月7日(最終騎乗)
重賞勝利 7勝
G1級勝利 1勝
通算勝利 2721戦411勝
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藤本 勝彦(ふじもと かつひこ、1930年10月6日 - )は北海道出身の元騎手調教師藤本冨良は父、日刊競馬トラックマンの藤本貴久は実子[1]

来歴・人物

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1950年に騎手免許を取得してデビューし、父の厩舎に騎手生活を通して所属し続けた。1年目の同年4月2日にトツプホームで初騎乗(5着)を果たし、5月3日中山オープンで1948年皐月賞馬ヒデヒカリに騎乗して初勝利を挙げる。1961年金杯 (東)をヤマニンモアーで制して重賞初制覇、1962年には優駿牝馬オーハヤブサで制してキャリア唯一のGI級レース・八大競走制覇を遂げる。感情を表に出す性格と思い切りの良い騎乗で知られ、大厩舎の御曹司で騎乗馬に比較的恵まれたこともあってか毎年コンスタントに20勝前後を挙げ活躍し、日本騎手クラブ関東支部長を務めた経験もある。東京優駿は勝てなかったものの通算で2着2回3着1回という成績を残し、メイズイグレートヨルカの「MGダービー」と喧伝された1963年には18頭中8番人気のイロハを3着、1967年には28頭中10番人気のヤマニンカツプを同厩アサデンコウの2着、ヒカルイマイが二冠を達成した1971年には28頭中20番人気のハーバーローヤルを2着に導くなど人気薄でしばしば激走し、「ダービーの穴男」としても知られていた。同年は自己最多の29勝を挙げ、全国リーディングでも自己最高の21位にランクイン。1972年9月15日の中山第5競走4歳以上200万下にて自身の騎乗する3番人気のハーバータイガーを2着までに入らないようにし(結果は5着)、1番人気のスイートエメラルドと2番人気のシネマモーションがすんなり1・2着できるようする(結果は人気通り)という八百長依頼を知人から受けて実行[2]。それに伴い現金などの賄賂を受け取っていたことが発覚したほか、その後の調べで知人を中心としたグループとともに複数回の八百長を行っていたことを自供し、1973年10月10日競馬法違反容疑で逮捕された[3]。証拠不十分により同31日に釈放されたが、事態を重く見た日本中央競馬会から1974年2月28日までの騎乗停止処分を下される[3]。この一件により、事実上騎手生命を絶たれることとなった。

引退後は静岡県御殿場市富士牧場公園でサラブレッドスクール担当、千葉県長生郡睦沢町西山牧場一宮トレーニングセンターで場長を務めた。現在の消息は不明。

通算成績

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騎手成績
通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 411 374 342 1,594 2,721 .151 .288

障害競走騎乗経験なし)

主な騎乗馬

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太字は旧八大競走を含むGI級レース。

脚注

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  1. ^ 日刊競馬コラム for SmartPhone 編集長の競馬 2013年5月25日掲載
  2. ^ 客からワイロ わざと5着に落ちる」1973年10月15日朝日新聞朝刊 23面
  3. ^ a b 日本中央競馬会『優駿』1974年1月号、p.86

参考文献

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