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藤堂元光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤堂元光
時代 江戸時代
生誕 寛永11年(1635年
死没 貞享4年1月27日1685年3月2日
改名 左介(幼名)→元光
別名 市正→長門(通称)
主君 藤堂高次高久
伊勢国津藩
氏族 藤堂氏保田氏
父母 父:藤堂元住、母:藤堂高経の娘
兄弟 元光、佐伯惟信、元連、小鍋(藤堂良忠室)
正室:梅(藤堂高次の娘)
高稠、久(藤堂良長室)、元甫
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藤堂 元光(とうどう もとみつ)は、伊勢国津藩藤堂采女家嫡子。

家系

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藤堂采女家は、藤堂高虎に仕え藤堂姓を与えられた藤堂元則に始まり、代々の当主が「采女」の通称を名乗る。本姓保田氏。家紋は追洲流、三文字。初代元則以降伊賀上野城代を世襲した。

略歴

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寛永11年(1635年)藤堂家家臣藤堂元住の長男として伊勢津に生まれる。少年時代は江戸で幕府の証人を務めた。

寛永17年(1640年)祖父元則が伊賀国上野城代に就任。慶安4年(1651年)父元住が上野城代に就任。

承応3年(1654年)1月、元服して「市正」と改名。同年2月、藩主高次の娘於梅と結婚。於梅の生母は高久の生母於振(多羅尾氏)の妹於多阿。

貞享2年(1685年)1月27日、家督を継がないまま父に先立って死去。享年52。

家族

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長男高稠は、元住の後を継いで藤堂采女家第3代、上野城代となった。六男元甫(俳号白舌翁)は分家元連の養子となって相続。采女家を相続した元福が幼いため、看抱を命じられ、当主代行し「采女」と名乗って上野城代を務めた。「三国地志」の著者として知られる。蕉門十哲宝井其角の門人。 妹小鍋は、松尾芭蕉の仕えた藤堂良忠(藤堂蝉吟)に嫁いだ。小鍋の子の藤堂良長(藤堂探丸)は娘久の婿。

参考文献

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  • 上野市古文献刊行会編「庁事類編 藤堂藩伊賀城代家老日誌」
  • 久保文武著「伊賀史叢考」