藤原頼親
表示
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 天禄3年(972年) |
死没 | 寛弘7年11月9日(1010年12月17日) |
官位 | 正四位下、左近衛中将 |
主君 | 一条天皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 | 父:藤原道隆 |
兄弟 | 道頼、頼親、伊周、定子、隆家、原子、隆円、頼子、御匣殿 、周家、周頼、藤原妍子女房、好親、平重義室 |
妻 | 源満仲の娘 |
子 | 頼心、頼昭 |
藤原 頼親(ふじわら の よりちか)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の次男。官位は正四位下・左近衛中将。
経歴
[編集]摂関を務めた藤原道隆の次男として生まれるが庶子として扱われ、2歳年下の弟・伊周が内大臣に任ぜられた正暦5年(994年)の時点で、頼親は左近衛少将に止まっていた。長徳元年(995年)左近衛中将に昇格するが、同年の父・道隆薨去や翌長徳2年(996年)の長徳の変を通じて中関白家が没落したこともあり、15年に亘って近衛中将を務めるも、公卿昇進は叶わなかった。
寛弘7年(1010年)11月9日卒去。享年39。最終官位は正四位下行左近衛中将兼内蔵頭。
官歴
[編集]- 永祚元年(989年) 2月28日:見五位[1]
- 正暦2年(991年) 9月21日?:左近衛少将[2]
- 正暦4年(993年) 日付不詳:見正五位下[3]
- 長徳元年(995年) 正月13日?:左近衛中将[2]
- 長徳2年(996年) 4月24日:殿上簡削除(長徳の変)[1]
- 寛弘2年(1005年) 6月19日:兼内蔵頭[4]
- 寛弘5年(1008年) 10月16日:見内蔵頭左近衛中将備前守[5]
- 寛弘7年(1010年) 2月16日?:止備前守[2]。11月9日:卒去(正四位下行左近衛中将兼内蔵頭)[6]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。