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藤原雅隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原雅隆
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 久安3年(1147年
死没 元仁元年(1224年
官位 正三位非参議
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原光隆、母:藤原信通の娘
兄弟 雅隆家隆兼隆、清玄、平親国室、光子
為信長隆仲隆有隆重隆、隆尋、藤原家隆室、松殿忠房
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藤原 雅隆(ふじわら の まさたか、旧字体藤󠄁原 雅󠄂隆󠄁)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿藤原北家良門流、権中納言藤原光隆の長男。官位正三位非参議

経歴

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久寿2年(1155年藤原得子(美福門院)判代官蔵人に補され、従五位下叙爵保元2年(1157年)従五位上に進み、永暦元年(1160年備後守に任官。応保元年(1161年)左衛門佐を兼ね、長寛2年(1164年)備後守を重任する。

永万2年(1166年正五位下、続いて従四位下仁安3年(1168年)従四位上に叙される。嘉応2年(1170年美作守に遷任し、嘉応3年(1171年正四位下に昇叙。安元2年(1176年後白河法皇の五十賀にて、千手観音堂を寄進している。安元3年(1177年越後守を務め、治承3年(1179年大蔵卿に任ぜられた。寿永2年(1183年内蔵頭平信基平家の一門都落ちに従い、解官されたため雅隆は後任として内蔵頭に任ぜられた。

元暦2年(1185年従三位に叙され公卿に列す。建久9年(1198年)には正三位に進み、正治3年(1201年皇后宮権大夫に任ぜられる。元久3年(1206年)大夫を辞した。

元仁元年(1224年)薨去[1]。享年78。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 久寿2年(1155年)正月12日:美福門院判官代に補す[2]。正月14日:蔵人に補す。元院判代官。4月8日:従五位下に叙す(中宮久寿元御給)。
  • 保元2年(1157年)10月22日:従五位上に叙す。
  • 永暦元年(1160年)6月20日:備後守に任ず。
  • 応保元年(1161年)9月15日:左衛門佐に任ず。守如元。
  • 長寛2年(1164年)正月:備後守重任。
  • 永万元年12月30日(1166年2月2日):昇殿を聴す。
  • 永万2年(1166年)正月12日:正五位下に叙す(佐労)。4月6日:従四位下に叙す(皇嘉門院長寛元年未給)。
  • 仁安元年12月30日(1167年1月22日):昇殿を聴す。
  • 仁安3年(1168年)8月4日:従四位上に叙す(朝覲行幸賞)。
  • 仁安4年(1169年)正月11日:延任(1カ年)。
  • 嘉応2年(1170年)正月18日:美作守に遷る。元備後守。
  • 嘉応3年(1171年)正月6日:正四位下に叙す(新院当年御給)。
  • 承安5年(1175年)5月22日:美作守重任。
  • 安元3年(1177年)6月28日:越後守に遷る(親實解官替)。
  • 治承3年(1179年)11月17日:大蔵卿に任ず(泰経朝臣今日解官替)。
  • 養和2年(1182年)3月8日:大蔵卿を去る。
  • 寿永2年(1183年)8月16日:内蔵頭に任じ(信基解官替)、越後守に遷る。
  • 元暦2年(1185年)6月10日:従三位に叙す。
  • 建久9年(1198年)11月21日:正三位に叙す(去長寛二年朝覲行幸前女御琮子給)。
  • 正治3年(1201年)正月29日:皇后宮権大夫に任ず。8月1日:服解す。12月22日:復任す。
  • 元久3年(1206年)9月2日:大夫を止む。

系譜

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脚注

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  1. ^ 尊卑分脈良門
  2. ^ 兵範記久寿2年正月12日条