藤原雅隆
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 久安3年(1147年) |
死没 | 元仁元年(1224年) |
官位 | 正三位、非参議 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家良門流 |
父母 | 父:藤原光隆、母:藤原信通の娘 |
兄弟 | 雅隆、家隆、兼隆、清玄、平親国室、光子 |
子 | 為信、長隆、仲隆、有隆、重隆、隆尋、藤原家隆室、松殿忠房室 |
藤原 雅隆(ふじわら の まさたか、旧字体:藤󠄁原 雅󠄂隆󠄁)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家良門流、権中納言・藤原光隆の長男。官位は正三位・非参議。
経歴
[編集]久寿2年(1155年)藤原得子(美福門院)判代官、蔵人に補され、従五位下に叙爵。保元2年(1157年)従五位上に進み、永暦元年(1160年)備後守に任官。応保元年(1161年)左衛門佐を兼ね、長寛2年(1164年)備後守を重任する。
永万2年(1166年)正五位下、続いて従四位下、仁安3年(1168年)従四位上に叙される。嘉応2年(1170年)美作守に遷任し、嘉応3年(1171年)正四位下に昇叙。安元2年(1176年)後白河法皇の五十賀にて、千手観音堂を寄進している。安元3年(1177年)越後守を務め、治承3年(1179年)大蔵卿に任ぜられた。寿永2年(1183年)内蔵頭・平信基が平家の一門都落ちに従い、解官されたため雅隆は後任として内蔵頭に任ぜられた。
元暦2年(1185年)従三位に叙され公卿に列す。建久9年(1198年)には正三位に進み、正治3年(1201年)皇后宮権大夫に任ぜられる。元久3年(1206年)大夫を辞した。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 久寿2年(1155年)正月12日:美福門院判官代に補す[2]。正月14日:蔵人に補す。元院判代官。4月8日:従五位下に叙す(中宮久寿元御給)。
- 保元2年(1157年)10月22日:従五位上に叙す。
- 永暦元年(1160年)6月20日:備後守に任ず。
- 応保元年(1161年)9月15日:左衛門佐に任ず。守如元。
- 長寛2年(1164年)正月:備後守重任。
- 永万元年12月30日(1166年2月2日):昇殿を聴す。
- 永万2年(1166年)正月12日:正五位下に叙す(佐労)。4月6日:従四位下に叙す(皇嘉門院長寛元年未給)。
- 仁安元年12月30日(1167年1月22日):昇殿を聴す。
- 仁安3年(1168年)8月4日:従四位上に叙す(朝覲行幸賞)。
- 仁安4年(1169年)正月11日:延任(1カ年)。
- 嘉応2年(1170年)正月18日:美作守に遷る。元備後守。
- 嘉応3年(1171年)正月6日:正四位下に叙す(新院当年御給)。
- 承安5年(1175年)5月22日:美作守重任。
- 安元3年(1177年)6月28日:越後守に遷る(親實解官替)。
- 治承3年(1179年)11月17日:大蔵卿に任ず(泰経朝臣今日解官替)。
- 養和2年(1182年)3月8日:大蔵卿を去る。
- 寿永2年(1183年)8月16日:内蔵頭に任じ(信基解官替)、越後守に遷る。
- 元暦2年(1185年)6月10日:従三位に叙す。
- 建久9年(1198年)11月21日:正三位に叙す(去長寛二年朝覲行幸前女御琮子給)。
- 正治3年(1201年)正月29日:皇后宮権大夫に任ず。8月1日:服解す。12月22日:復任す。
- 元久3年(1206年)9月2日:大夫を止む。