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藤原道家 (御子左流)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤原 道家(生年不詳 - 長暦2年4月8日1038年5月14日[1])は、平安時代中期の貴族藤原北家御子左流大納言藤原長家の長男。位階従五位下[1]

解説

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下野国国司として赴任した道家は、下野国の有力者で藤原秀郷(ひでさと)の五代子孫である相模守・藤原公光(きんみつ)と知り合い、その助けを得て任務に励む。公光の子佐藤左衛門尉公清(さえもんのじょうきみきよ[2])には子どもがいなかったので、美濃国席田郡郡司を務めていた守部氏である守部資信の第二子の助清(すけきよ、のち佐藤資清)を養子に迎えていた[3]

道家は、国司の任期を終えて京都に戻った後、朝廷に参内し、任務完了の報告をした。朝廷は、道家の国司としての功績をほめたたえるとともに、伊予国の国司に任じた。道家は、伊予国の国司の任務も無事に果たし、京都に戻る。

藤原北家摂関家庶流説」(「国史大系 藤原氏尊卑分脉系譜、民部卿長家卿尊卑分脉」より『山内氏の始祖の位置づけをさぐる』)によると、朝廷は、道家の功績に従三位を贈るとともに、相模国鎌倉山内荘を贈ったとされ、この道家こそ、山内氏の始祖と位置付けられている(佐藤資清が道家の養子になり、のち山内を名乗る)。

脚注

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  1. ^ a b 『尊卑分脈』
  2. ^ 国立国会図書館. “秀郷流藤原氏で 佐藤氏の祖になった佐藤公清、資(助)清について知りたい。山内首藤氏の祖にあたる。”. レファレンス協同データベース. 2021年12月27日閲覧。
  3. ^ 平安期の鎌倉・山内荘 /北道倶楽部”. www.ktmchi.com. 2021年12月27日閲覧。

参考文献

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