藤原資藤
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明、元応2年11月8日(1320年12月8日)出家 |
別名 | 二条 |
官位 | 正二位権中納言 |
主君 | 亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流楊梅庶流 |
父母 |
父:藤原資氏、母:平成俊娘 養父:藤原資季 |
兄弟 | 資高、資藤、資世、乗尋、静寛、顕證、女子 |
妻 | 不明 |
子 | 資教 |
藤原 資藤(ふじわら の すけふじ)は、鎌倉時代後期の公卿。二条資藤とも。正二位権中納言。父は左中将藤原資氏、母は権中納言平成俊女。
兄弟で祖父の養子
[編集]兄資高と共に祖父権大納言藤原資季の養子となった可能性が高い[1]。資季には資氏しか子女がいなかったため、早くに出家した資氏に代わり家門存続のために2人の養子を確保しようとしたと考えられる。なお、資季自身が資家の唯一の子である。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 文永7年(1270年)1月5日、叙爵[2]。
- 文永8年(1271年)12月19日、従五位上に昇叙。
- 弘安元年(1278年)5月26日、侍従に任ぜられる。
- 弘安4年(1281年)2月2日、正五位下に昇叙[3]。
- 弘安6年(1283年)1月5日、従四位下に昇叙[4]。侍従は元の如し。同年3月28日、越前介を兼ねる。
- 弘安7年(1284年)12月12日、左少将に任ぜられる。
- 弘安9年(1286年)9月2日、従四位上に昇叙。
- 弘安10年(1287年)1月13日、上総介を兼ねる。
- 正応2年(1289年)閏10月14日、右中将に転任。
- 正応3年(1290年)1月5日、正四位下に昇叙。
- 永仁2年(1294年)3月27日、従三位に叙される。この日、右兵衛督に任ぜられる。
- 永仁4年(1296年)3月9日、正三位に昇叙。
- 永仁5年(1297年)1月29日、左兵衛督に転任。
- 正安2年(1300年)4月7日、参議に任ぜられる。同年12月22日、参議を辞す。
- 嘉元2年(1304年)3月22日、従二位に昇叙[5]。
- 徳治元年(1306年)8月15日、資季の喪に服す[6]。
- 延慶2年(1309年)10月12日、正二位に昇叙。
- 正和5年(1316年)4月13日、権中納言に任ぜられる。同年7月22日、権中納言を辞退。
- 元応2年(1320年)11月8日、出家。