藤原菅継
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 延暦10年5月20日(791年6月26日) |
別名 | 菅嗣 |
官位 | 従四位下、右京大夫 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原綱手、母:秦朝元の娘 |
兄弟 | 菅継、菅成 |
妻 | 不詳 |
子 | 真野麻呂、葛守、葛成、宗成 |
藤原 菅継(ふじわら の すがつぐ/すげつぐ)は、奈良時代の貴族。藤原式家、藤原綱手の子。官位は従四位下・右京大夫。
経歴
[編集]宝亀4年(773年)従六位下から一挙に四階昇進して従五位下に叙爵し、翌宝亀5年(774年)常陸介に任ぜられる。宝亀8年(777年)兵部少輔。天応元年(781年)4月光仁天皇が危篤に陥ると、固関のために越前国愛発関に遣わされた[1]。
桓武朝に入り、延暦2年(783年)従五位上に叙せられると、同年主計頭次いで右大舎人頭、翌延暦3年(784年)治部大輔次いで大宰少弐と、短期間の内に内外の官職を転々とする。こののち、延暦5年(786年)正五位下、延暦8年(789年)従四位下・右京大夫に叙任される等順調に昇進する一方、同年12月の皇太后・高野新笠の葬儀の御葬司を、延暦9年(790年)皇后・藤原乙牟漏の葬儀の山作司をそれぞれ務めた。
延暦10年(791年)5月20日卒去。最終官位は右京大夫従四位下。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:従六位下
- 宝亀4年(773年) 正月7日:従五位下(越階)
- 宝亀5年(774年) 9月4日:常陸介
- 宝亀8年(777年) 正月25日:兵部少輔
- 天応元年(781年) 5月25日:民部少輔
- 延暦2年(783年) 正月16日:従五位上。7月25日:主計頭。11月12日:右大舎人頭
- 延暦3年(784年) 4月2日:治部大輔。7月13日:大宰少弐
- 延暦5年(786年) 正月7日:正五位下
- 延暦8年(789年) 正月6日:従四位下。3月16日:右京大夫。12月29日:御葬司(皇太后・高野新笠崩御)
- 延暦9年(790年) 3月26日:陰陽頭。閏3月11日:山作司(皇后・藤原乙牟漏崩御)
- 延暦10年(791年) 5月20日:卒去(右京大夫従四位下)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 『続日本紀』天応元年4月1日条