藤原継彦
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時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 天平勝宝元年(749年) |
死没 | 天長5年2月26日(828年3月16日) |
官位 | 従三位、刑部卿 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 藤原京家 |
父母 | 父:藤原浜成、母:多治比縣守の娘 |
兄弟 | 永谷、継彦、臣継、大継、承之、豊彦、法壱 |
子 | 広敏、清敏、雄敏、貞敏 |
藤原 継彦(ふじわら の つぐひこ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原京家、参議・藤原浜成の三男。官位は従三位・刑部卿。
経歴
[編集]宝亀11年(780年)従五位下に叙爵し、翌天応元年(781年)兵部少輔に任ぜられる。天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱において、父・浜成と共に連座して解官となる。のち赦されて、桓武朝では、延暦8年(789年)主計頭、延暦18年(799年)左少弁・陰陽頭、延暦24年(805年)左中弁、延暦25年(806年)民部大輔を歴任する。
平城朝でも引き続き民部大輔を務め、大同3年(808年)には正五位下に叙せられている。
嵯峨朝に入り、大同5年(810年)正月に従四位下に叙せられ、同年9月に薬子の変が発生すると山城守に任ぜられている。その後、弘仁5年(814年)従四位上、弘仁11年(820年)正四位下と順調に昇進し、弘仁13年(822年)には従三位に昇叙され公卿に列した[1]。またこの間、刑部卿を務めている。
人物
[編集]生まれつき聡明鋭敏であり、見識を有しており度量もあった。天文や暦法にも精通していた。管楽器・弦楽器にも熟練しており、曲の演奏に誤りがあると、酒杯を重ねて酔っていても必ずあと振り返って正したという[2]。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 宝亀11年(780年) 2月1日:従五位下
- 天応元年(781年) 5月25日:兵部少輔
- 天応2年(782年) 閏正月19日:解官
- 延暦8年(789年) 5月28日:主計頭
- 時期不詳:従五位上
- 延暦18年(799年) 2月2日:左少弁。日付不詳:陰陽頭。4月11日:兼上総介
- 時期不詳:讃岐守
- 延暦24年(805年) 10月4日:左中弁、讃岐守如元
- 延暦25年(806年) 2月16日:民部大輔。3月18日:御装束司(桓武天皇崩御)
- 大同3年(808年) 5月21日:治部大輔。5月28日:民部大輔。11月17日:正五位下
- 大同5年(810年) 正月7日:従四位下。9月10日:山城守
- 弘仁5年(814年) 2月21日:従四位上
- 時期不詳:刑部卿
- 弘仁11年(820年) 正月7日:正四位下
- 弘仁13年(822年) 11月1日:従三位
- 天長5年(828年) 2月26日:薨去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。