藤原泰通
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 久安3年(1147年) |
死没 | 承元4年9月20日(1210年10月9日) |
官位 | 正二位・権大納言、按察使 |
主君 | 鳥羽上皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 |
父:藤原為通、母:源師頼娘 猶父:藤原成通 |
兄弟 | 伊忠、泰通、性禅、猷玄、女子 |
妻 | 藤原隆季娘、藤原教良娘 |
子 |
経通、国通、朝通、広通、覚愉、寛俊、道寛、信宗、藤原兼良室、 正親町三条公氏室?、源経成室 |
藤原 泰通(ふじわら の やすみち)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家中御門流、参議・藤原為通の子。官位は正二位・権大納言、按察使。大納言・藤原成通の猶子。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 久寿3年(1156年)1月6日、従五位下に叙せられる[1]。
- 保元元年(1156年)9月17日、侍従に任ぜられる[2]。
- 永暦元年(1160年)1月21日、阿波権介を兼ねる。
- 応保元年(1161年)10月19日、左少将に任ぜられる[3]。
- 応保2年(1162年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 長寛2年(1164年)1月21日、美作介を兼ねる。同年11月16日、正五位下に昇叙。
- 永万2年(1166年)1月12日、従四位下に昇叙。
- 仁安3年(1168年)8月4日、従四位上に昇叙[4]。
- 仁安4年(1169年)1月11日、伊予介を兼ねる。
- 嘉応2年(1170年)1月5日、正四位下に昇叙[5]。
- 承安4年(1174年)12月1日、右中将に転任。
- 承安5年(1175年)1月22日、伊予介を兼ね左中将に遷る。
- 治承4年(1180年)1月28日、美作介を兼ねる。
- 養和元年(1181年)12月4日、蔵人頭に補される。
- 寿永2年(1183年)1月22日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。同年12月22日、従三位に叙せられる。
- 元暦元年(1184年)3月27日、讃岐権守を兼ねる。同年11月7日、近江権守に遷る。
- 文治2年(1186年)12月15日、権中納言に任ぜられる[6]。
- 文治3年(1187年)5月25日、勅授帯剣を許される。
- 文治5年(1189年)4月5日、正三位に昇叙。
- 建久2年(1191年)12月28日、従二位に昇叙。
- 建久4年(1193年)10月17日、復任する。
- 建久6年(1195年)11月10日、中納言に転正する[7]。
- 建久8年(1197年)1月30日、正二位に昇叙。
- 正治元年(1199年)6月22日、権大納言に転任[8]。同年12月16日、長仁親王の勅別当に補される。
- 建仁2年(1202年)7月23日、権大納言を辞退[9]。按察使に任ぜられる。同月26日、本座を許される。
- 承元2年(1208年)6月20日、出家。
- 承元4年(1210年)9月20日、薨去。享年64。
高倉天皇の近習
[編集]『禁秘抄』によれば、泰通は高倉天皇の近習であったという[10]。