藤原有能
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時代 | 鎌倉時代初期 - 中期 |
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生誕 | 元暦元年(1184年) |
死没 | 不詳 |
官位 | 正三位、非参議 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 藤原南家信西(通憲)流 |
父母 | 父:藤原範能、母:平業房の娘 |
兄弟 | 有能、永隆、道能、通時、範海、快真、修子 |
妻 | 牛玉、藤原秀康または藤原秀宗の娘 |
子 | 資能、真遍、道恵 |
藤原 有能(ふじわら の ありよし)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。藤原南家信西(通憲)流、大宰大弐・藤原範能の子。官位は正三位・非参議。
経歴
[編集]文治4年(1188年)従五位下に叙爵。建久元年(1190年)従五位上に叙せられ、建久2年(1191年)右兵衛佐に任ぜられる。
建久6年(1195年)正五位下に叙せられ、建久9年(1198年)従四位下、正治2年(1200年)従四位上、正治3年(1201年)正四位下と急速に昇進。建仁4年(1204年)右京大夫に任ぜられ、建永2年(1207年)越前権守を兼ねる。承元4年(1210年)義弟・三条公房の譲りで従三位に叙せられて公卿に列した。建暦元年(1211年)には石清水臨時祭に奉仕している[1]。
しかし、その後の昇進は滞り、建保4年12月(1217年1月)正三位に叙せられた後は建長4年(1252年)に出家するまで叙位・任官は無かった上、承久2年(1220年)には行幸に参じないことを理由に非参議・藤原忠行、同藤原家衡と共に恐懼に処されている。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 文治4年(1188年)10月14日:従五位下に叙す。
- 建久元年(1190年)10月20日:従五位上に叙す。
- 建久2年(1191年)11月5日:右兵衛佐に任ず。
- 建久6年(1195年)正月5日:正五位下に叙す。
- 建久9年(1198年)正月5日:従四位下に叙す。
- 正治2年(1200年)正月24日:従四位上に叙す(前皇太后宮永万二年大嘗會)。
- 正治3年(1201年)正月6日:正四位下に叙す(宣陽門院御給)。
- 建仁4年(1204年)正月13日:右京大夫に任ず。
- 建永2年(1207年)正月13日:越前権守を兼ぬ。
- 承元4年(1210年)8月22日:従三位に叙す(公房卿春日行幸行事賞譲)。右京大夫如元。
- 建暦元年(1211年)3月18日:石清水臨時祭に奉仕す[1]。
- 建保2年(1214年)正月24日:慈円が延暦寺根本中堂にて法華法を修する際、同寺に登山す[2]。
- 建保4年12月17日(1217年1月25日):大夫を止み、正三位に叙す。
- 承久2年(1220年)7月2日:恐懼。度々行幸参ぜずに依る。
- 建長4年(1252年)6月:出家。