藤原弘経
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 承和6年(839年) |
死没 | 元慶7年1月15日(883年2月25日) |
官位 | 従四位下、越前権守 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇 |
氏族 | 藤原北家長良流 |
父母 | 父:藤原長良、母:藤原乙春 |
兄弟 | 国経、遠経、基経、高経、有子、弘経、淑子、高子、清経、栄子 |
子 | 宜春、近相、輔相 |
藤原 弘経(ふじわら の ひろつね)は、平安時代前期の貴族。藤原北家、権中納言・藤原長良の五男。陽成天皇の外伯父。
経歴
[編集]清和朝の貞観3年(861年)讃岐権掾に任ぜられる。貞観6年(864年)正月に従五位下に叙爵し、同年6月には讃岐権介に昇進する。貞観8年(866年)侍従に任ぜられるが、貞観12年(870年)加賀権守に転じると、貞観15年(873年)には讃岐権介に再任されるなど、清和朝後期は再び地方官を歴任する。貞観17年(875年)左衛門佐に任ぜられて京官に復す。
元慶元年(877年)甥にあたる陽成天皇の即位に伴って従五位上に叙せられると、元慶3年(879年)にも正五位下に昇叙される。元慶6年(882年)頃から病に伏せるが、外伯父にあたる事から陽成天皇が特に憐れみ、病床にもかかわらず同年12月末に従四位下への叙位が行われた。翌元慶7年(883年)正月には越前権守に任ぜられるが、任官の4日後に卒去した。享年45。最終官位は従四位下行越前権守。
人物
[編集]生まれつき言葉を発する事が少なく流暢に話せなかった。高尚な話をする場合に、上手に言葉を表現できなかったという[1]。
官歴
[編集]『日本三代実録』による。
- 貞観3年(861年) 日付不詳:讃岐権掾
- 時期不詳:正六位上
- 貞観6年(864年) 正月7日:従五位下。6月28日:讃岐権介
- 貞観8年(866年) 正月13日:侍従
- 貞観12年(870年) 正月25日:加賀権守
- 貞観15年(873年) 日付不詳:讃岐権介
- 貞観17年(875年) 日付不詳:左衛門佐
- 貞観19年(877年) 正月3日:従五位上
- 元慶3年(879年) 日付不詳:兼加賀権守。11月25日:正五位下
- 元慶6年(882年) 12月29日:従四位下
- 元慶7年(883年) 正月11日:越前権守。正月15日:卒去(従四位下行越前権守)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 『日本三代実録』元慶7年1月15日条