藤原家時 (小一条流)
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藤原 家時(ふじわら の いえとき、生年不詳 - 嘉禎2年(1236年)1月)は、鎌倉時代の公家。藤原北家小一条流、宮内大輔・藤原親綱の長男。官位は正三位・越前守。
経歴
[編集]後白河院政期末の建久元年(1190年)従五位下に叙爵し、建久9年(1198年)出雲守に任官。承元3年(1209年)斎院長官兼少納言に任ぜられると、建保5年(1217年)中務大輔と後鳥羽院政期の後半に京官を務めた。
承久元年(1219年)越前守として地方官に遷り、翌承久2年(1220年)従四位下に叙せられる。承久3年(1221年)6月に発生した承久の乱後は、同年11月に従四位上、貞応元年(1222年)正四位下と順調に昇進し、嘉禄元年(1225年)には従三位に叙せられ、小一条流としては平安時代中期の藤原師成以来約150年ぶりに公卿に列した。公卿昇進後は散位であったが、安貞2年(1228年)正三位に昇叙されている。
貞永元年(1232年)病気のため出家、法名は蓮家。嘉禎2年(1236年)正月に薨去。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 建久元年(1190年) 正月5日:従五位下(皇太后宮)
- 建久9年(1198年) 9月8日:出雲守(朝方卿申任之)
- 承元3年(1209年) 7月23日:斎院長官。10月:兼少納言
- 建暦2年(1212年) 10月11日:従五位上(大嘗会七条院)
- 建保3年(1215年) 正月5日:正五位下(嘉陽門)
- 建保5年(1217年) 6月29日:中務大輔
- 承久元年(1219年) 9月7日:越前守
- 承久2年(1220年) 正月7日:従四位下
- 承久3年(1221年) 11月16日:従四位上(御即位、嘉陽門)
- 貞応元年(1222年) 11月22日:正四位下
- 嘉禄元年(1225年) 12月22日:従三位、元越前守
- 安貞2年(1228年) 3月20日:正三位
- 貞永元年(1232年) 9月8日:出家(法名・蓮家)
- 嘉禎2年(1236年) 正月:薨去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年