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藤原宗平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原宗平
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建久8年(1197年
死没 文永8年4月1日1271年5月11日
官位 従二位参議
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇
氏族 松木家
父母 父:藤原宗経、母:藤原仲頼の娘
兄弟 宗平宗倫宗季、宗済、藤原教成
不詳
中御門宗雅中御門宗実中御門宗保中御門宗光中御門宗兼中御門宗藤、宗恵
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藤原 宗平(ふじわら の むねひら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿左近衛中将藤原宗経の長男。官位従二位参議

経歴

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建永2年(1207年従五位下に叙爵。承元4年12月(1211年1月)侍従に任ぜられ、建暦2年(1212年)には父・宗経の左近衛中将辞任と替わって右近衛中将に任官。建暦3年(1213年)に尾張介を経て、建保2年(1214年)従五位上に昇叙。

建保5年(1217年正五位下に叙せられる。建保6年(1218年備前介を務め、承久元年12月(1220年1月)従四位下に昇叙。承久2年(1220年)右近衛少将となり、承久4年(1222年)従四位上、元仁2年(1225年正四位下と順調に昇進を重ね、嘉禄2年(1226年)に右近衛中将、嘉禄3年(1227年)に伊予介寛喜4年(1232年)に美作介を兼ね、文暦元年12月(1235年1月)蔵人頭に補任。嘉禎2年(1236年従三位・参議に叙任されて公卿に列した。嘉禎3年(1237年)美作権守を兼帯。

嘉禎4年(1238年)正月、正三位に進むが、4月に参議を辞任した。仁治元年(1240年)に従二位に叙せられるが、仁治4年(1243年)出家した。文永8年(1271年)4月1日に薨去。享年75。

人物

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楽道の家に生まれたが、父・宗経同様にその家業を継承しなかった。

官歴

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※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 建永2年(1207年)正月5日:従五位下に叙す(氏)。
  • 承元4年12月17日(1211年1月3日):侍従に任ず。
  • 建暦2年(1212年)3月22日:右近衛中将に任ず。
  • 建暦3年(1213年)正月13日:尾張介に任ず。
  • 建保2年(1214年)正月5日:従五位上に叙す。
  • 建保5年(1217年)正月6日:正五位下に叙す。
  • 建保6年(1218年)正月13日:備前介に任ず。
  • 承久元年12月13日(1220年1月20日):従四位下に叙す。
  • 承久2年(1220年)正月23日:右近衛少将に任ず。
  • 承久4年(1222年)正月6日:従四位上に叙す(臨時)。
  • 元仁2年(1225年)正月6日:正四位下に叙す。
  • 嘉禄2年(1226年)4月19日:右近衛中将に転ず。
  • 嘉禄3年(1227年)正月26日:伊予介を兼ぬ。
  • 寛喜4年(1232年)正月30日:美作介を兼ぬ。
  • 文暦元年12月21日(1235年1月11日):蔵人頭に補す。
  • 嘉禎2年(1236年)2月30日:参議に任ず。7月20日:従三位に叙す。
  • 嘉禎3年(1237年)正月24日:美作権守を兼ぬ。
  • 嘉禎4年(1238年)正月23日:正三位に叙す。4月20日:参議を辞す。7月16日:本座を聴す。
  • 仁治元年(1240年)10月28日:従二位に叙す。
  • 仁治4年(1243年)正月9日:出家。
  • 文永8年(1271年)4月1日:薨去。享年75。

系譜

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参考文献

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先代
藤原宗経
松木家
6代
次代
中御門宗雅