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薬袋義一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
薬袋義一

薬袋 義一(みない ぎいち、1855年2月4日安政元年12月18日[1])- 1903年明治36年)2月10日[2])は、日本の政治家衆議院議員国民協会立憲政友会)。

経歴

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甲斐国巨摩郡竜王村(現在の山梨県甲斐市)の丹沢家に生まれ、八代郡大塚村(現在の西八代郡市川三郷町)の薬袋義道の養子となった[3]1877年(明治10年)、区長となり、1880年(明治13年)には山梨県会議員に選出された[3]

山梨県において県令・藤村紫朗の主導する県政に対して自由民権運動が展開される。薬袋は新聞社・峡中新報社を立ち上げ社長に就任し、『峡中新報』において反藤村県政を展開した。さらに峡中立憲党の結成に加わり、常議員となった[3]

1884年(明治17年)、北都留郡長に任命され、翌年からは南都留郡長も兼任し、1890年(明治23年)に南都留郡長専任となった[4]

1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3回当選を果たした。

その他に東京商品取引所理事も務めた[5]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第十七回帝国議会衆議院議員名簿』(第十七回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1902年〕、13頁。
  2. ^ 『政治家人名事典』
  3. ^ a b c 『峡中自由諸名士略伝』P.15-21
  4. ^ 『新選代議士列伝』P.149
  5. ^ 『衆議院議員略歴』

参考文献

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  • 長坂啓三編『峡中自由諸名士略伝』1884年。 
  • 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。 
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 
  • 『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1936年。