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薛禄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

薛 禄(せつ ろく、1358年 - 1430年)は、明代軍人本貫膠州膠西県

生涯

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薛遇林と張氏のあいだの六男として生まれた。洪武年間、20歳の加冠の前に軍に入り、兵士から身を立てた。排行が六だったため、軍中で「薛六」と呼ばれた。たびたび北伐に参加した。1399年建文元年)、靖難の変が起こると、騎士として燕王朱棣の起兵に従い、先頭に立って九門を奪取した。真定の戦いでは、左副将軍の李堅を槊で刺して落馬させ、これを捕らえた。指揮僉事に抜擢された。永平の救援に従い、大寧・富峪・会州・寛河を下した。引き返して北平を救援し、先駆けして南軍の遊騎を破った。指揮同知に進んだ。1400年(建文2年)、大同を攻め、先鋒をつとめた。白溝河の戦いでは、済南まで追撃し、指揮使に転じた。東昌の戦いでは、50騎で南兵数百を破った。ときに燕王朱棣が盛庸に敗れて、北平に逃げ帰った。盛庸は真定諸将に文書を送って威県深州に進出させ、燕軍の帰路を迎撃させようとした。1401年(建文3年)、薛禄はこれを撃退した。滹沱河の戦いでは、右軍が後退した。薛禄は陣に駆けつけ、敵陣に出入りして戦うこと数十回、南軍を破った。追撃して夾河にいたり、多数を斬首した。単家橋の戦いで平安に捕らえられた。薛禄は縛を脱して、刀を抜いて守兵を殺し、逃げ帰った。平安と再戦してこれを破った。順徳大名彰徳を攻撃した。西水寨を攻め、都指揮の花英を生け捕りにした。1402年(建文4年)、勝勢に乗じて東阿・東平・汶上を下し、淝河・小河・霊璧に連戦して、薛禄の功績は最上であった。南京に入ると、薛禄は都督僉事に抜擢された。

1408年永楽6年)、薛禄は都督同知に進んだ。1410年(永楽8年)、驃騎将軍となり、永楽帝(朱棣)の第一次漠北遠征に従い、右都督に進んだ。1412年(永楽10年)、武臣の子弟にも閑暇に教育をおこなうよう請願した。永楽帝はその言をよしとし、地方から軍の若年者数万を送らせ、薛禄の麾下で実習させた。1417年(永楽15年)、薛禄は行在後軍都督として北京城の造営を監督した。

1420年(永楽18年)12月、永楽帝が北京を都に定めると、薛禄は奉天靖難推誠宣力武臣の位を受け、陽武侯に封じられた。1422年(永楽20年)8月、開平を守った。1423年(永楽21年)、右哨を率いて永楽帝の第四次漠北遠征に従った。1424年(永楽22年)2月、長興県の呉貴帰らの反乱を鎮圧した[1]。再び右哨を率いて永楽帝の第五次漠北遠征に従った。

洪熙帝が即位すると、薛禄は左府を管掌するよう命じられ、太子太保の位を加えられ、世券を与えられた。1425年洪熙元年)、総兵官となり、塞外の防備にあたった。鎮朔大将軍の印を受け、開平から大同にいたる北辺を巡察した。

1425年洪熙元年)、宣徳帝が即位すると、薛禄は北京に召還され、備辺五事を上奏した。ほどなく再び北辺巡察に派遣された。1426年宣徳元年)、漢王朱高煦の乱を鎮圧するために宣徳帝の親征がおこなわれると、薛禄は先鋒をつとめ、楽安城を包囲した。朱高煦が降伏すると、薛禄は兵部尚書の張本とともに楽安にとどまって、当地の治安維持にあたった。1427年(宣徳2年)春、宣徳帝の命を受けて畿南諸府の城池を巡視した。兵士に民衆の生活を騒がせないように厳く戒め、違反した者は軍法をもって処断した。この夏、大将軍の印を受け、開平に北巡し、引き返すと宣府に駐屯した。敵が開平を侵犯しようとしたが、得るものなく退却し、城を去ること300里あまりにいたった。薛禄は精鋭の兵を率いて昼に寝て夜に進軍し、3日目の夕方に追いついた。軽装の騎兵で敵陣を蹂躙した。軍を返すと、敵がその後をつけてきたため、薛禄は逆撃して破った。1428年(宣徳3年)、漠北遠征に従い、寛河で敵を破り、薊州鎮・永平に駐屯した。辺境を巡回して食糧輸送を護衛し、開平と宣府のあいだに進出した。1430年(宣徳5年)、鳳凰嶺で敵に遭遇して、多数を捕斬し、太保の位を加えられた。永寧衛の団山や鵰鶚・赤城・雲州・独石に城堡を築くよう上奏した。宣徳帝の命により軍民36000人が動員され、騎兵1500人で護衛して、工事は薛禄の監督により実施された。6月、薛禄は病にかかって、北京に召還された。7月23日、死去した。享年は73。鄞国公の位を追贈された。は忠武といった。

子の薛勲が先だって死去していたため、孫の薛詵が陽武侯の爵位を嗣いだ。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻17

参考文献

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  • 明史』巻155 列伝第43
  • 奉天靖難推誠宣力武臣特進光禄大夫柱国太保陽武侯追封鄞国公諡忠武薛公神道碑銘(楊士奇『東里文集』巻12所収)