落合甚九郎
落合 甚九郎(おちあい じんくろう、1892年(明治25年)3月28日[1][2] - 1971年(昭和46年)11月23日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]栃木県出身[1][2][3]。栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる[1][4]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]。
1928年(昭和3年)8月、陸士付となり、さらに同教官を務め、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1930年(昭和5年)2月、応聘により支那出張となり北京陸軍大学教官に就任[1]。1931年(昭和6年)3月、第7師団司令部付となり、歩兵第26連隊付、支那駐屯軍司令部付を経て、1934年(昭和9年)8月、歩兵中佐に進み第2師団参謀に就任[1][3]。1936年(昭和11年)8月、陸士付(支那留学生隊長)に就任[1][3]。1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となり第109師団参謀となり日中戦争に出征[1]。1938年(昭和13年)2月、同師団参謀長に就任し、同年3 月、航空兵大佐に昇進した[1][3]。
1939年(昭和14年)12月、東部防衛参謀に就任し、東部軍参謀を経て、1940年(昭和15年)9月、第11軍司令部付(漢口特務機関長)となり、1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に進んだ[1][2][3]。同年6月、支那派遣軍司令部付(興亜院華中連絡部次長心得)に転じ、支那派遣軍総参謀副長兼中国大使館付武官を経て、1944年(昭和19年)5月、第27師団長心得に就任[1][2][3]。同年6月、陸軍中将に進級し第27師団長に就任[1][2][3]。南昌の警備活動中に終戦を迎えた[2]。
その後、BC級戦犯の容疑で逮捕され、1948年(昭和23年)5月、無期禁固の有罪判決を受け、1952年(昭和27年)8月、巣鴨拘置所から釈放された[1]。この間、1948年(昭和23年)1月に 公職追放の仮指定を受けた[5]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。