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萱島興三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

萱島 興三(かやしま こうぞう、1932年昭和7年)11月10日 - 2018年平成30年)6月[1])は、昭和から平成時代の計算機科学者、実業家

経歴・人物

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1955年(昭和30年)京都大学工学部電気工学科を卒業後、日立製作所に入社する[1]

入社後約1年間、推計学やORの研究に従事したのち、上司の高田昇平、島田正三らの下でパラメトロンを使った電子計算機HIPAC MK-1の開発を行い、1957年(昭和32年)12月にこれを完成させた[1]。その後、日立製作所戸塚工場へ異動し、1962年(昭和37年)8月にコンピュータ事業部が設立されるとHIPAC 101、103の製品化を指揮した[1]。また、RCA/Spectra 70シリーズの国産化、Spectra 70/35 (HITAC 8300) の共同開発、高橋茂の下でHITAC 8000シリーズの事業化などに貢献した[1]。のち、日立製作所旭工場の工場長、日立製作所コンピュータ事業本部技師長などを歴任し、1985年(昭和60年)日立製作所を退職[1]

退職後は、日立電子エンジニアリング常務を経て、1993年(平成5年)同社社長、1999年(平成11年)会長、2001年(平成13年)相談役となった[1]。ほか、1976年から78年、情報処理学会理事、常務理事を務めた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 萱島 興三-コンピュータ博物館、2019年3月18日閲覧。