萩原眞
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萩原 眞(はぎわら まこと、1857年 - 1925年9月15日)は、日本人の実業家[1]。庭師[2]。フォーチュン・クッキーを作ったという説がある[3]。
生涯
[編集]山梨県東山梨郡平等村に生まれる[4]。家は農業の傍ら製糸業を営んでいた[4]。15歳の時父親が他界したため業を継ぐが、その後1879年(明治12年)にサンフランシスコに渡る[4]。
1888年(明治21年)にサンフランシスコの中華街の一角に「大和屋」という料理屋を開業し[4][5][6]、対岸のオークランドにも料理屋を開くが失敗する[4]。
ゴールデン・ゲート・パーク内でミッド・ウィンタース博覧会が開かれた際、喫茶店の出店を申請し許可され、評判が良かったため博覧会が終了した後も公園課の希望によって存続されることになった[4]。また1894年、同公園内に日本庭園を築き[5][6]、その土地に居住を許され没するまでそこに暮らした[3]。萩原家は庭園を訪ねる観光客に煎茶と数種の瓦煎餅を販売しており、そのうちの一つは占い入り、つまりフォーチュン・クッキーだった[3]。また1907年にはグアテマラの大統領[注 1]から委嘱され同国の政庁と官舎の中間に日本流の庭園を築いている[4]。
脚注
[編集]注釈
- ^ マヌエル・ホセ・エストラーダ・カブレーラ (Manuel José Estrada Cabrera、在任: 1898年2月8日 - 1920年4月15日)
出典
- ^ 北國新聞 (2013年10月27日). “起源は辻占 AKB曲名「フォーチュンクッキー」”. 47NEWS. 2015年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月9日閲覧。
- ^
HAPPY PLUS () (2013年9月29日). “あの「フォーチュンクッキー」の正体は、実は金沢の郷土菓子だった!”. livedoor NEWS. 2015年12月9日閲覧。 - ^ a b c 中町泰子「日系チャプスイレストランにおけるフォーチュンクッキーの受容」『年報非文字資料研究』第5号、神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター、2009年3月20日、173-186頁、ISSN 18839169、NAID 120006603626、国立国会図書館書誌ID:10815216、2021年12月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g 廣瀬守令『在米甲州人奮闘五十年史』1934年、163-167頁頁。
- ^ a b 山梨日日新聞社『山梨百科事典』1989年、741頁頁。
- ^ a b 東京オリンピック郷土訪問海外県人歓迎委員会『山梨県海外移住史』1848年、9頁頁。
関連文献
[編集]- 山梨県立図書館 (2013年12月17日). “アメリカのフォーチュンクッキーは、山梨県出身の
萩原眞 ()が「辻占煎餅 ()」を売ったのが始まりだという説がある。この、萩原眞という人物について知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年6月7日閲覧。