菅野谷高政
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菅野谷 高政(すがのや たかまさ、生没年未詳)は、江戸時代の俳諧師。通称、孫右衛門。
来歴
[編集]京都富小路通錦小路上ル町に住む[1]。延宝3年(1675年)『誹諧絵合』を刊行して俳壇へ進出[1]。延宝5年(1677年)、西山宗因と菅野谷高政の百韻を巻頭に置く『後集絵合千百韵』を刊行[1]。翌年には西山宗因を自宅へ招聘し、「末茂れ守武流の惣本寺」の句をもらい受け、西山宗因に傾倒する[1]。延宝7年(1679年)、『誹諧中庸姿』を刊行するが、荒誹諧として貞門派の批判を受け、随流著『誹諧破邪顕正』以後、貞門派と談林派の論争に発展する[1]。延宝8年(1680年)、随流への批判に答える形で『是天道』を刊行し、翌年も『ほのぼの立』を刊行[1]。異体異風の俳風を誇示するが、天和2年(1682年)の西山宗因の死後は俳壇の第一線から退く[1]。その後の活動は不明[1]。元禄10年(1697年)、下里知足『多日万句羅』に、当時60歳くらいと記述されている[1]。
当初、江戸住みで延宝2、3年頃に京都に上京したとする説があったが、雲英末雄によって江戸住高政と京都高政は別人であると推定され[2]、森川昭の『多日万句羅』翻刻によって別人説が裏付けられた。