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萩野末吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荻野末吉から転送)

萩野 末吉(はぎの すえきち、1860年10月14日(万延元年9月1日 [1][2]) - 1940年昭和15年)2月13日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将情報将校の元祖として知られる。

経歴

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岡山藩士・萩野閑吾の二男として生れる[1]。1875年(明治8年)12月、陸軍教導団に入団[1]。1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し、歩兵少尉に任官[1][3]。1883年(明治16年)2月、近衛歩兵第1連隊付となる[1]

1885年(明治18年)4月、参謀本部出仕(管東局)となり[1]、同年5月から1888年(明治21年)5月、ウラジオストクに留学し[1]シベリアから蒙古までを偵察した。1888年5月、参謀本部出仕となり、同年11月に帰国[1]。1889年(明治22年)11月、陸軍幼年学校副官に就任し、参謀本部出仕を経て、1892年(明治25年)5月から1895年(明治28年)5月までロシアに留学し、この間、1892年11月から1893年(明治26年)9月までロシア近衛歩兵第4連隊付となる[1]。1895年5月に帰国し参謀本部出仕となり、1896年(明治29年)5月、伏見宮貞愛親王の欧州・ロシア出張に随行し、同年8月から10月までシベリア旅行を行って帰国した[1]。1898年(明治31年)10月、歩兵少佐に進級し参謀本部第3部員に就任[1]。1899年(明治32年)1月、参謀本部第1部員に転じ、1900年(明治33年)10月、チーフー、旅順、南満州、韓国の視察旅行に派遣された[1]

1903年(明治36年)6月、歩兵中佐に昇進し歩兵第12連隊付となる[1]。1904年(明治37年)2月、日露戦争第1軍参謀として従軍[1][2][3]。翌年6月、歩兵大佐に進級し歩兵第12連隊長となる[1][3]。以後、ロシア大使館付を経て、1910年(明治43年)6月、陸軍少将に進み歩兵第29旅団長に就任[1][2][3]。1912年(明治45年)4月、台湾第2守備隊司令官に転じ、1914年(大正3年)8月に待命となり、同年9月8日、陸軍中将に進級と同時に予備役に編入された[1][2][3][4]シベリア出兵に伴い召集を受け、1919年(大正8年)1月から1922年(大正11年)11月まで浦塩派遣軍司令部付となった[1]

栄典

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勲章等
外国勲章佩用允許

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本陸海軍総合事典』第2版、123頁。
  2. ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』570頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』62-63頁。
  4. ^ 『官報』第633号、大正3年9月9日。
  5. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  6. ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
  7. ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
  8. ^ 『官報』第4030号「叙任及辞令」1896年12月3日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

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