荒川持暇
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 八左衛門、権之助(通称) |
官位 | 従五位下、丹波守 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家光 |
氏族 | 荒川氏(清和源氏足利氏流、吉良氏庶流) |
父母 | 父:荒川定安 |
兄弟 | 持暇、定昭、女(内藤信直室)、女(三宅重貞室)、女(長谷川重俊室)、女(松平忠福室) |
荒川 持暇(あらかわ もちやす)は、江戸時代初期の旗本。将軍徳川家光に近侍したが、将軍の刀を渡し間違えるという失態を犯し、罷免された。
生涯
[編集]旗本荒川定安の長男として生まれる。生年は不詳であるが、父の定安は慶長4年(1599年)生まれであるため、事件の際には20代であったと推測される。
寛永13年(1636年)6月4日、御手水番となる。寛永15年12月晦日(1639年)、従五位下・丹波守に叙せられる。寛永16年12月25日(1640年)に御膳番となり400石を加増。それまでの知行と併せて700石となる。しかし、寛永17年(1640年)2月8日、職務上の失態により突如として罷免され、前途を絶たれる。
その前日の2月7日、将軍徳川家光は、大老酒井忠勝の別邸に遊び、夜に江戸城に帰還した。このとき、持暇は将軍の御刀を誤って駕籠者に渡してしまった。夜陰のために見間違えたとしても、御刀を卑賤の者に渡したことは死刑に値するとされたが、将軍の外出が病を慰めるための私的なものであったこと、持暇が旧家の子孫(荒川家は吉良氏の一族)であることが考慮されて罪を減じられ、父の荒川定安に預けられた。
『寛政重修諸家譜』に、持暇のその後は記されていない。荒川家は、この事件のあとに生まれた弟の定昭が継いでいる。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十三