荒井英郎
あらい ひでお 荒井 英郎 | |||||
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生年月日 | 1911年6月28日 | ||||
没年月日 | 1987年10月18日(76歳没) | ||||
出生地 | 日本 東京府(現在の東京都[1]) | ||||
職業 | 映画監督、脚本家 | ||||
ジャンル | 映画、ドキュメンタリー映画 | ||||
活動期間 | 1935年 - 1987年 | ||||
活動内容 |
1935年 松竹蒲田入社 1940年 監督デビュー[1] 1951年 松竹退社[1] | ||||
主な作品 | |||||
『月の輪古墳』 『朝鮮の子』 『われわれは監視する - 核基地横須賀』 | |||||
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荒井 英郎(あらい ひでお[1]、1911年6月28日 - 1987年10月18日[1])は、日本の映画監督、脚本家である。
人物・来歴
[編集]1911年(明治44年)6月28日、東京府(現在の東京都)に生まれる[1]。
文化学院に入学、在学中に松竹キネマ(現在の松竹)に入社する[1]。助監督として、五所平之助、佐々木康、渋谷実らに師事する[2]。同学院卒業後、1940年(昭和15年)に『海を照らす人々』で監督としてデビューする[1]。
第二次世界大戦後、1951年(昭和26年)に松竹を退社し、フリーランスとなる[1]。
1953年(昭和28年)、月の輪古墳発掘運動に取材したドキュメンタリー映画『月の輪古墳』[3]で教育映画祭最高賞を受賞した[1]。1955年(昭和30年)には、東京都立朝鮮人学校閉鎖に取材し、在日朝鮮人学校全国PTA連合会、在日朝鮮人教育者同盟、在日朝鮮映画人集団による「朝鮮の子製作委員会」製作によるドキュメンタリー映画『朝鮮の子』を監督する[4]。
1975年(昭和50年)、横須賀海軍施設に取材し『われわれは監視する - 核基地横須賀』を監督、ライプツィヒ国際ドキュメンタリー・アニメーション映画祭で金鳩賞を受賞した[1]。
1987年(昭和62年)10月18日、死去した[1]。満76歳没。
没後、1993年(平成5年)4月、坂崎武彦編著による書籍『動く絵の作家荒井英郎』が刊行された。2005年(平成17年)、山形国際ドキュメンタリー映画祭で、監督作『朝鮮の子』が上映された[4]。2006年(平成18年)4月20日、日本記録映画作家協会が主催した「日本記録映画作家協会50周年記念映画祭」で、監督作『われわれは監視する - 核基地横須賀』が上映された[5]。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『人生のお荷物』 : 監督五所平之助、松竹蒲田撮影所、1935年 - 助監督
- 『悲恋華』 : 監督佐々木康、松竹蒲田撮影所、1936年 - 監督補助[6]
- 『朧夜の女』 : 監督五所平之助、松竹大船撮影所、1936年 - 助監督
- 『新道 前篇朱実の巻』 : 監督五所平之助、松竹大船撮影所、1936年 - 助監督
- 『母と子』 : 監督澁谷實、松竹大船撮影所、1938年 - 監督補助
- 『海を照らす人々』 : 松竹、1940年 - 監督
- 『月の輪古墳』 : 記録教育映画製作協議会 / 共同映画[3]、1953年 - 監督
- 『朝鮮の子』 : 朝鮮の子製作委員会、1955年 - 監督・脚本[4]
- 『スラム』 : 英映画社、1961年 - 脚本・演出
- 『われわれは監視する - 核基地横須賀』 : 映画で横須賀を記録する会[5]、1975年 - 監督
註
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「荒井英郎」の項、『日本人名大辞典』、講談社。#外部リンク欄、コトバンク、本項リンク先の記述を参照。2009年10月4日閲覧、二重リンクは省く。
- ^ #外部リンク欄、日本映画データベース、本項リンク先の記述を参照。2009年10月4日閲覧、二重リンクは省く。
- ^ a b プログラムA 作品紹介、日本記録映画作家協会50周年記念映画祭ブログ、2009年10月4日閲覧。
- ^ a b c YIDFF 2005 公式カタログ、山形国際ドキュメンタリー映画祭、2009年10月4日閲覧。
- ^ a b プログラムC 作品紹介、日本記録映画作家協会50周年記念映画祭ブログ、2006年1月23日付、2009年10月4日閲覧。
- ^ 所蔵映画フィルム検索システム、東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年10月4日閲覧。
関連書籍
[編集]- 坂崎武彦編著『動く絵の作家荒井英郎』、講談社出版サービスセンター、1993年4月 ISBN 4876012857
関連事項
[編集]外部リンク
[編集]- Hiderô Arai - IMDb
- 荒井英郎 - 日本映画データベース
- 荒井英郎 - コトバンク