吉士磐金
吉士 磐金(きし の いわかね)、あるいは難波吉士 磐金(なにわ の きし いわかね、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。
出自
[編集]「吉士」は元来、古代朝鮮における「首長・族長」を意味する語による「敬称」であり、転じて姓や氏になったものであるが、さらに遡ると、中国周人の出自である[1]。難波吉士・三宅吉士・草香部吉士などがあり、本拠地は摂津国嶋下郡吉志部村(現在の大阪府吹田市岸部町)。『新撰姓氏録』「摂津国皇別」によると、吉志氏は「難波忌寸同祖,大彦命之後也」となっており、一族は外交事務で多く活躍している。
経歴
[編集]新羅への派遣(推古5年)
[編集]『日本書紀』巻第二十二によると、推古天皇5年(598年)11月に新羅に派遣されたとあるのが名前の初出である[2]。この2年前、595年に、
将軍(いくさのきみ)等(たち)、筑紫(つくし)より至(まういた)る[3]。
とあり、これは巻第二十一にある591年(崇峻天皇4年11月)の紀男麻呂・大伴咋・葛城烏那羅らを大将軍として、任那復興のために筑紫に派遣していた2万の軍[4][5]を呼び戻したことを示している。
翌599年4月、新羅より帰国して、鵲(かささぎ)2羽を献上した。つがいは「難波社」(なにわのもり)で飼育され、木の枝に巣をつくって、子を産んだという[6]。これと関係があるのかどうかは不明だが、同年8月に新羅は孔雀1羽を貢上した[7]。さらに、その次の年の9月には、百済は駱駝(らくだ)1匹、驢(うさぎうま=ロバ)を1頭、羊2頭、白い雉(きぎす=キジ)を1羽貢上した[8]。これらの動物は、589年に中国を統一した隋によってもたらされたものであろうと、直木孝次郎は述べている。『三国史記』によると、百済は隋建国の581年から使者をおくっており、新羅も594年に隋から「上開府楽浪郡公新羅王」(じょうかいふ らくろうぐんこう しらぎおう)に叙せられている。
推古天皇8年(601年)、新羅と任那が戦争をし[9]、大和政権からの援軍が送られ、新羅が任那の調(みつぎ)を献上する、という形で決着がついた[10]。
新羅への派遣(推古31年)
[編集]その20年ほどのちのことである。
推古天皇31年(623年)7月、新羅が任那を攻撃し、服属させた。大和政権は半島へ派兵しようとしたが、慎重論が勝利し、磐金は、一族の吉士倉下(きし の くらじ)と共に問責使として新羅・任那両国へ派遣された。磐金が新羅担当で、倉下が任那担当であった。
この時に磐金らが新羅に渡る際に、出迎えの船に任那側の船がないことを尋ねたため、新羅側は任那用の船を追加した、という。
時の新羅王は、真平王であったが、8人の大夫を派遣して、新羅国内のことを磐金に伝えた。そして約束していうには、
任那は小(いささけ)き国なれども、天皇(すめらみこと)の附庸(ほどかすのくに=包まれて付き従っている国)なり。何(なに)ぞ新羅(しらきのくに)輙(たやす)く有(え)むや。常(つね)の随(まま)に内官家(うちつみやけ)と定(さだ)め、願(ねが)はくは煩(わづら)ふこと無けむ。
任那は小さい国でありますが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりできましょうか。今まで通りの天皇の内官家と定め、心配なさいませんように。 — 宇治谷孟 訳、日本書紀
新羅は奈末智洗遅(なまちせんじ)を磐金に、任那人達奈良末遅(だちそちなまじ)を倉下につけてよこした。そして、磐金は倉下と合流し、新羅・任那両国の調を受け取った。しかし、磐金らがまだ帰国する前に大和政権は、境部雄摩侶・中臣国子の両名を大将軍とする征新羅軍が派遣されてしまった。この時、磐金らは風を待って出向しようと港に集まっていたが、両国の使いはこの様子を望見し、愕然とした。そこで代役を立てて、任那の調の使いとして、逃げかえってしまった。
磐金は、「軍を起こすことは先の約束とは違う。これでは任那のことはまたうまく行くまい」と倉下と語り合ったという[11]。
2人はその年の11月に帰国し、この時の有様を大臣の蘇我馬子に詳しく報告した。その時馬子は、
悔(くや)しきかな。早(はや)く師(いくさ)を遣(つかは)しつること。
と言ったと伝えられる[12]。
この軍事行動は大和政権内部の対立を露わにしたものであり、これによりしばらく続いた新羅との善隣外交も崩れ去った。
百済弔使の訪問(皇極元年)
[編集]それから19年後、草壁吉士磐金(くさかべ の きし いわかね)という男が『書紀』巻第二十四に登場する。
舒明天皇が崩御し、皇后の宝皇女(皇極天皇)が即位したが、この年(642年)、百済から帰国したばかりの阿曇連比羅夫(あずみのむらじひらぶ)が筑紫国から早馬で駆けつけ、百済が弔使を派遣してきたので、隨行してきたと報告した[13]。その際に百済で内紛が起きていることを伝えたため、2月に比羅夫と草壁吉士磐金と、倭漢書直県(やまとのあや の ふみ の あたい あがた)を百済の弔使のところに派遣し、義慈王即位後の百済国内の様子を尋ねさせた、とある[14]。
この草壁吉士磐金も、実は吉士磐金と同一人物ではないか、とも言われている。『書紀』巻第十四には、推定454年、安康天皇の時に大草香皇子に殉じた難波吉士日香蚊(なにわのきしひかか)[15]の子孫に、雄略天皇が推定470年に大草香部吉士の氏姓を授けた、という記事が見える[16]。
ただし、同一人物だとすると、かなりの老齢になる。
脚注
[編集]- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』国民社〈第4巻〉、1942年、177頁。doi:10.11501/1123910 。
- ^ 『日本書紀』推古天皇五年十一月二十二日条
- ^ 『日本書紀』推古天皇三年七月条
- ^ 『日本書紀』崇峻天皇四年八月一日条
- ^ 『日本書紀』崇峻天皇四年十一月四日条
- ^ 『日本書紀』推古天皇六年四月条
- ^ 『日本書紀』推古天皇六年八月一日条
- ^ 『日本書紀』推古天皇七年九月一日条
- ^ 『日本書紀』推古天皇八年二月条
- ^ 『日本書紀』推古天皇八年是歳条
- ^ 『日本書紀』推古天皇三十一年七月(是歳)条
- ^ 『日本書紀』推古天皇三十一年十一月条
- ^ 『日本書紀』皇極天皇元年一月二十九日条
- ^ 『日本書紀』皇極天皇元年二月二日条
- ^ 『日本書紀』安康天皇元年二月一日条
- ^ 『日本書紀』雄略天皇十四年四月一日条
参考文献
[編集]- 『日本書紀 二』岩波書店〈岩波文庫〉、1994年。
- 『日本書紀 三』岩波書店〈岩波文庫〉、1994年。
- 『日本書紀 四』岩波書店〈岩波文庫〉、1995年。
- 宇治谷孟 訳『日本書紀 全現代語訳 上』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 宇治谷孟 訳『日本書紀 全現代語訳 下』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 直木孝次郎『古代国家の成立』中央公論社〈日本の歴史 2〉、1965年。
- 佐伯有清 編『日本古代氏族事典』雄山閣、2015年。
- 加藤謙吉『渡来氏族の謎』祥伝社〈祥伝社新書〉、2017年。