コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

茅原狐塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
茅原狐塚古墳

墳丘・石室開口部
所在地 奈良県桜井市茅原(字狐塚)
位置 北緯34度32分0.42秒 東経135度50分46.00秒 / 北緯34.5334500度 東経135.8461111度 / 34.5334500; 135.8461111座標: 北緯34度32分0.42秒 東経135度50分46.00秒 / 北緯34.5334500度 東経135.8461111度 / 34.5334500; 135.8461111
形状 方墳
規模 一辺40m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
(内部に石棺3基)
出土品 鉄刀・須恵器
築造時期 7世紀前半
被葬者 (一説)三輪氏一族(三輪逆?)
史跡 なし
地図
茅原狐塚 古墳の位置(奈良県内)
茅原狐塚 古墳
茅原狐塚
古墳
テンプレートを表示

茅原狐塚古墳(ちはらきつねづかこふん)は、奈良県桜井市茅原にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。

本項目では、茅原狐塚古墳の北東にある弁天社古墳についても解説する。

概要

[編集]

奈良盆地南東部、三輪山西麓に築造された大型方墳である。墳丘は大きく削平を受けており、西側のJR桜井線(万葉まほろば線)の敷設時にも削平を受けたと見られる。1956年昭和31年)に発掘調査が実施されている[1]

墳形は方形で、一辺約40メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する[1]。石室全長17メートル(実質14メートル)を測る屈指の規模の大型石室で、玄室では凝灰岩製組合式家形石棺1基を含む計3基の石棺が据えられる。石室内は盗掘に遭っているが、副葬品として鉄製品(直刀片か)・須恵器が採集されている[1]

築造時期は、古墳時代終末期7世紀前半頃と推定される[1]。三輪山西麓は、三輪山祭祀が行われる場所として聖域化された土地であったが、中期-後期には本古墳のほか茅原大墓古墳・馬塚古墳・弁天社古墳などの営造が認められる[1]。これらの被葬者と三輪山祭祀との関連性が注目され[1]、被葬者を三輪氏一族(特に三輪逆[2])とする説がある。

埋葬施設

[編集]
石室パース図
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[1]

  • 石室全長:17.32メートル(実質約14メートル)
  • 玄室:長さ6.03メートル、幅2.56メートル(奥壁)、高さ1.92メートル
  • 羨道:長さ11.29メートル(実質約8メートル)、幅2.09メートル、高さ1.92メートル

羨道部の開口部から3.25メートルでは、小石材を積んで羨道側壁とは異なることから、墓道の石積みとも解される(その場合、上記では実質長として記載)[1]。石室の石材は花崗岩の巨石で、玄室・側壁とも2段積みの上に小石材が補填される[1]。羨道は1段積みである[1]

玄室内では、奥壁付近の凝灰岩製組合式家形石棺1基のほか、中央部・入口付近で2組の石棺片が確認されており、計3基の石棺の使用が認められる[1]。3基はいずれも石室主軸に直交する[1]。また、羨道部では鉄釘が検出されていることから、木棺の追葬も想定される[1]。石室の構造としては水泥南古墳御所市)とほぼ同一設計になるとして注目される[3]

石室内からは、副葬品として鉄製品(鉄刀か)・須恵器が検出されている[1]。特に須恵器は、中央石棺の底から20個体分の完形の坏の出土が報告される[1]。そのほか、円筒埴輪片も出土したというが詳らかでない(後世の紛れ込みか)[1]

弁天社古墳

[編集]
弁天社古墳

石室
(手前に玄室、右奥に羨道、左背後に大神神社末社の富士神社・厳島神社)
所在地 奈良県桜井市茅原(字堂ノ前)
(富士神社・厳島神社境内)
位置 北緯34度32分2.00秒 東経135度50分50.05秒 / 北緯34.5338889度 東経135.8472361度 / 34.5338889; 135.8472361 (弁天社古墳)
形状 不明
埋葬施設 両袖式横穴式石室
(内部に石棺2基)
築造時期 古墳時代後期
史跡 なし
特記事項 墳丘は非現存
テンプレートを表示

弁天社古墳(べんてんしゃこふん)は、茅原狐塚古墳の北東約100メートルにある古墳。現在は大神神社末社の富士神社・厳島神社(弁天社)の社殿背後に所在し、東には大神神社摂社の神御前神社が鎮座する。現在までに墳丘は失われ石室が半壊状態で露出するほか、発掘調査は実施されていない。

墳形は明らかでない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。巨石を使用した石室であり、玄室長約4メートル・玄室幅1.9メートル・羨道幅1.4メートルを測る[4]。石室内では玄室において石棺片(初葬棺か)が、羨道において凝灰岩製刳抜式家形石棺(追葬棺か)が認められる[5]。桜井市内北部の古墳石棺の多くは組合式であるのに対して、本古墳では刳抜式石棺が使用される点で注目される[5]。副葬品は詳らかでない。築造時期は明らかでないが、茅原狐塚古墳と前後する時期と想定される[5]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 茅原狐塚古墳(桜井の横穴式石室) 2010.
  2. ^ 鈴木正信『古代豪族 大神氏 ―ヤマト王権と三輪山祭祀』(筑摩書房、2023年)
  3. ^ 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 66-69。
  4. ^ 弁天社古墳(古墳) 1989.
  5. ^ a b c 弁天社古墳(桜井の横穴式石室) 2010.

参考文献

[編集]

(記事執筆に使用した文献)

  • 弁天社古墳説明板(桜井市教育委員会設置)
  • 「狐塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301 
  • 日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
    • 清水眞一「狐塚古墳 > 茅原狐塚古墳」清水眞一「弁天社古墳」
  • 『桜井の横穴式石室を訪ねて』桜井市文化財協会、2010年。 
    • 「茅原狐塚古墳」「弁天社古墳」

関連文献

[編集]

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 樋口清之「大和三輪山付近の一古墳」『考古學雜誌』第15巻第11号、考古學會、1925年。 
  • 網干善教「大和三輪狐塚古墳について」『古代学』第8巻第3号、古代学協会、1959年。 

関連項目

[編集]