若江王
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若江王(わかえおう/わかえのおおきみ、生没年不詳)は、奈良時代後期の皇族。系譜は不明だが、三世王以上五世王未満であることが、以下の叙位から分かる[1]。官位は従五位下・写一切経司次官。
経歴
[編集]天平宝字8年(764年)10月、逆徒藤原仲麻呂追討の賞として、山部王(のちの桓武天皇)・当麻王らとともに無位から従五位下に叙されている[2]。続く称徳朝天平神護2年(766年)11月にも、同じく無位から従五位下に昇叙する記事がある[3]。
神護景雲元年(767年)8月、写一切経司次官に就任し、時に従五位下とある[4]。以後、神護景雲2年(768年)2月[5]、同年4月[6]、同年6月[7]、同年閏6月[8]、同年8月[9]、同年9月[10][11]、同3年(769年)6月[12]、宝亀2年(771年)閏3月[13]と、奉写一切経司次官、従五位下としての署があり、少なくとも光仁朝の初めまではこの官職を勤めている。
桓武朝の延暦2年(783年)2月にも無位から従五位下に叙されているが[14]、この若江王は、別人とする説があり[15][16]、あるいは何らかの理由で位階を剥奪されていた可能性や、記事の重複か誤記である場合も考えられる。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 天平宝字8年(764年)10月7日:従五位下
- 時期不詳:位階剥奪(?)
- 天平神護2年(766年) 正月18日:従五位下(復位?)
- 神護景雲元年(767年)8月29日:写一切経司次官
- 宝亀2年(771年)閏3月以降:官位剥奪?(『大日本古文書』」による)
- 延暦2年(783年) 2月5日:従五位下(復位?)
脚注
[編集]- ^ 「選叙令」35条によると、原則として親王の子に従四位下で、諸王の子には従五位下。皇親ではなくなる五世王は従五位下。その子は1階下になり、庶子はさらに1階下になるということになっていた
- ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年10月7日条
- ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇 天平神護2年11月5日条
- ^ 『続日本紀』巻第二十八、称徳天皇 神護景雲元年8月29日条
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 694頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 695頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 696頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 697頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 698頁
- ^ 『大日本古文書』巻五 - 699頁
- ^ 『大日本古文書』巻十七 - 86頁
- ^ 『大日本古文書』巻十七 - 120頁
- ^ 『大日本古文書』巻十八 - 321頁
- ^ 『続日本紀』巻第三十七、桓武天皇 今皇帝 延暦2年2月5日条
- ^ 岩波書店『続日本紀』4補注25 - 七三
- ^ 岩波書店『続日本紀』5 - p259注二一