苓北観光汽船
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒863-2507 熊本県天草郡苓北町富岡2711-47 |
設立 | 2013年9月4日 |
業種 | 海運業 |
法人番号 | 4330001019829 |
事業内容 | 海上運送事業 |
代表者 | 松野重幸 |
資本金 | 220万円 |
外部リンク | https://www.reihoku-kisen.jp/ |
苓北観光汽船(れいほくかんこうきせん)は、熊本県苓北町に本社を置く日本の海運会社。苓北町富岡と長崎市茂木の間で旅客船を運航している。本項では同社の運航する航路の概略についても記述する。
概要
[編集]長崎市・茂木港と天草を連絡する航路は、九州商船発足時から長らく同社によって運航されていた。旅客船時代には本渡を経て、三角、島原までの航路もあったが、陸上交通の整備、特に天草架橋もあって年々縮小され、1965年(昭和40年)に茂木 - 富岡にフェリーが就航した時点では、既に富岡 - 天草・三角方面の航路とは分離されており[1]、富岡以東についてはその後廃止された。
1982年(昭和57年)には、予備船として残っていた九州商船最後の在来貨客船「鯨波丸」がこの航路で最終航海を行い、同社の完全フェリー化が達成され[2]、同年8月1日には、長崎天草フェリー株式会社として分社化された[3]。
この体制も長くは続かず、1987年(昭和62年)に長崎天草フェリーは航路を廃止し撤退[4]、代わって安田産業汽船による運航となる。当時、安田産業汽船は長崎 - 串木野航路の超高速船「にっしょう」等、積極的な航路拡大を進めており、茂木 - 富岡航路でもフェリーに加えて高速旅客船を運航するなど意欲的な動きが見られたが、2000年代に入ると燃油費高騰もあって採算は厳しく、フェリーの運航を2004年(平成16年)10月1日に休止、旅客船のみの運航となった。その後、自治体からの支援によって、2006年(平成18年)4月1日から旅客船に代わってフェリーの運航を再開した。新たに導入されたフェリーは苓北町が購入し、「公設民営」の形で運営された[5]が、やはり採算は厳しく、安田産業汽船は2011年(平成23年)10月1日に撤退、フェリーも海外売船された。
その後、通院等で一定の需要があることから、苓北観光汽船株式会社が設立され、新たに高速旅客船によって航路の運航を行っている。
航路
[編集]船舶
[編集]運航中の船舶
[編集]いずれも小型船舶の高速旅客船である。
- Kizuna II
- Kizuna III
過去の船舶
[編集]九州商船
[編集]- 鯨波丸[6]
- 1968年4月竣工、田熊造船建造、貨客船、船舶整備公団共有
- 427.56総トン、全長48.20m、型幅8.10m、型深さ3.35m、ディーゼル1基、機関出力1,500ps、航海速力14.0ノット、旅客定員400名
- 九州商船最後の在来貨客船。引退後甑島商船に用船され、同社でも最後の在来貨客船として就航
九州商船→長崎天草フェリー
[編集]- フェリーたちばな[6]
- 1964年2月竣工、来島どっく建造、もと九四フェリーボート「しこく」
- 273.73総トン、全長39.63m、型幅9.00m、型深さ3.20m、ディーゼル1基、機関出力620ps、航海速力11.00ノット、旅客定員200名、トラック6台・乗用車9台
- 1986年引退・解体[7]
長崎天草フェリー→安田産業汽船
[編集]- フェリーれいしゅう[8]
- 1970年6月竣工、臼杵鉄工所建造、もと九州郵船「フェリー壱岐」
- 391.28総トン、全長45.20m、型幅9.60m、型深さ3.50m、ディーゼル1基、機関出力1,400ps、航海速力12.5ノット、旅客定員209名、乗用車20台
- 2004年引退
安田産業汽船
[編集]- 1989年11月竣工、向井造船所建造、もと大島村「フェリー大島」、苓北町所有
- 198総トン、全長37.60m、型幅8.00m、型深さ3.04m、ディーゼル2基、機関出力1,700ps、航海速力13.0ノット、旅客定員167名、8tトラック1台・乗用車2台。
- げんかい5[10]
- 1983年5月進水、南海造船建造、FRP製、高速旅客船
- 15.00総トン、ディーゼル1基、機関出力700ps、航海速力25.00ノット、旅客定員104名
- オーシャンライナー11[11]
- 1989年7月進水、南海造船建造、FRP製、高速旅客船
- 19.00総トン、ディーゼル2基、機関出力1,200ps、航海速力27.0ノット、旅客定員66名
- エアポートライナー13[11]
- 1987年4月進水、南海造船建造、FRP製、高速旅客船
- 12.00総トン、ディーゼル1基、機関出力700ps、航海速力27.0ノット、旅客定員66名
脚注
[編集]- ^ 「フェリー大島」時代のデータ
出典
[編集]- ^ 『旅客定期不定期航路事業現況表』,運輸省海運局定期船課,[1962]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2513296 (参照 2024-04-08)
- ^ 西口公章 九州商船客船史 (世界の艦船 第309集 1982年7月号 PP.162-165)
- ^ 『海員 : 全日本海員組合機関誌』35(6)(407),全日本海員組合本部,1983-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1838085 (参照 2024-04-08)
- ^ 『旅客船 : 機関誌』(163),日本旅客船協会,1988-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2811046 (参照 2024-04-08)
- ^ “道路整備の中期的な計画の作成に伴う意見について”. 国土交通省/苓北町. 2024年4月8日閲覧。
- ^ a b 『日本船舶明細書 1983』日本海運集会所、1983年。
- ^ 世界の艦船別冊 日本のカーフェリー -その揺籃から今日まで- P.269 (海人社 2009)
- ^ 『日本船舶明細書 1988』日本海運集会所、1988年。
- ^ 『日本船舶明細書 1996』日本海運集会所、1996年。
- ^ 『旅客船 : 機関誌』(187),日本旅客船協会,1994-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2811070 (参照 2024-04-08)
- ^ a b 『旅客船 : 機関誌』(183),日本旅客船協会,1993-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2811066 (参照 2024-04-09)