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苅田種継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
苅田 種継
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下助教
主君 淳和天皇仁明天皇
氏族 苅田
紀安雄
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苅田 種継(かりた の たねつぐ)は、平安時代初期の貴族儒学者は首。子に紀安雄がいる。官位従五位下助教

経歴

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讃岐国苅田郡出身。天長8年(831年直講を務めていた際、淳和天皇神泉苑への行幸に召されて、主税頭安野真継と『春秋』について、阿波守善道真貞と『三礼』について議論をした[1]

仁明朝承和2年(835年従五位下に叙せられる。のち、内位の従五位下・助教に叙任された。

逸話

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仁明天皇経学を深く尊んでいて、しばしば儒者を召して、御前で議論をさせていた。ある時天皇は、大学博士御船氏主と助教・苅田種継の両人を召して経義について議論させた。氏主はを執り、種継はを挙げ、激しい議論の末、決着がつかなかった。当時、怪力の持ち主であった左近衛・阿刀根継と右近衛・伴氏永の二人が相撲上手で天下無双とされていたことから、天皇は戯れに氏主を氏永に、種継を根継に例えたという[2]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『日本後紀』天長8年8月10日条
  2. ^ a b 『日本三代実録』仁和2年5月28日条

参考文献

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