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芳賀一晶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芳賀 一晶(はが いっしょう、生年不詳 - 1707年宝永4年)4月)は、江戸時代前期の俳人[1][2]画家である[2]。名は治貞[2][3]、通称は順益(玄益とも[2][1][3]。別号に崑山翁[2][3]、冥霊堂等がある[1][2]

経歴・人物

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一晶作の井原西鶴自画像

京都に生まれ[1][2]、後に伊藤信徳鶏冠井令徳[2][3]三井秋風らから俳諧を学ぶ[2][3]。一晶の作風はその時代の流行を取り入れたものであり[2]、延宝から元禄時代に活動が顕著であった[2]。一晶は1万3500句程度の矢数俳諧によって一躍有名となり[3]西山宗因が総帥だった談林俳諧の点者に認められる[3]

1683年天和3年)には江戸に入り[3]松尾芭蕉蕉門と親交を持ち彼らと共に活動した[2]。移住後は俳人としての活動以外にも師の令徳旧蔵の「崑山」印や菱川師宣の作風をよくし[1][2]井原西鶴の自画像作成にあたる等画家としても活動し[2][3]、後に医師としても活動したとされている[3]

主な著作物

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主著

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  • 『丁卯文集』
  • 『千句前集』

その他の著書

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  • 『四衆懸隔』
  • 『蔓付贅』
  • 『如何』
  • 『八衆懸隔』
  • 『千句後集』
  • 『万水入海』
  • 『一塵重山』

脚注

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  1. ^ a b c d e 芳賀一晶”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年3月23日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 芳賀一晶”. 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版). 2024年3月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 一晶”. 改訂新版 世界大百科事典(平凡社). 2024年3月23日閲覧。