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花房太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

花房 太郎(はなぶさ たろう、1873年明治6年)4月19日[1] - 1932年昭和7年)8月22日[1])は、明治から昭和初期の海軍軍人政治家華族。最終階級は海軍少将貴族院子爵議員

経歴

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東京府出身、本籍岡山県[1]外交官花房義質の長男として生まれる[2][3]1897年(明治30年)10月、海軍兵学校24期)を卒業し、1898年(明治31年)4月、海軍少尉任官[1]

1899年(明治32年)6月、磐手回航委員としてイギリスに出張し、1901年(明治34年)5月に帰国[1]。その後、天城航海長心得、千早航海長心得、同航海長などを経て、1903年(明治36年)10月、千歳航海長に就任して日露戦争に出征し日本海海戦などに参戦した[1][4]。以後、兵学校航海術教官兼監事、横須賀鎮守府参謀兼望楼監督官、富士航海長心得、壱岐航海長、伊吹航海長兼呉海軍工廠艤装員、対馬副長、皇族附武官兼軍事参議官副官・威仁親王附属、兼元帥副官・元帥大将威仁親王附、軍令部出仕、宗谷副長、比叡副長、千早艦長などを務め、1916年(大正5年)12月、海軍大佐に昇進し阿蘇艦長に就任[1][5]。父の死去に伴い1917年(大正6年)8月10日、子爵を襲爵[6]

さらに、若宮艦長、兼艦隊航空隊司令、軍令部出仕、皇族附武官兼軍事参議官副官・大将依仁親王附属、軍令部出仕(第三班)などを歴任し、1921年(大正10年)12月、海軍少将に昇進と同時に待命となり、1922年(大正11年)12月休職、1923年(大正12年)3月31日予備役編入、1929年(昭和4年)4月19日後備役となった[1][4][5]

1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7][8]研究会に所属して活動し死去するまで在任した[9][10]

栄典

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位階
勲章等

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『日本海軍史 第10巻』342-343頁。
  2. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成 下巻』370頁。
  3. ^ 『人事興信録 第9版』ハ58頁。
  4. ^ a b 『日本海軍将官辞典』302頁。
  5. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』83頁。
  6. ^ 『官報』第1509号、大正6年8月11日。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、33頁。
  8. ^ 『官報』第3869号、大正14年7月16日。
  9. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』51頁。
  10. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
  11. ^ 『官報』第1440号「叙任及辞令」1917年5月22日。
  12. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  13. ^ 『官報』第2613号 附録「叙任及辞令」9頁 1921年4月20日
  14. ^ 『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第10巻』第一法規出版、1995年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
花房義質
子爵
花房(義質)家第2代
1917年 - 1932年
次代
花房孝太郎