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蘆野資俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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蘆野資俊
時代 江戸時代前期
生誕 寛永14年(1637年
死没 元禄5年6月26日1692年7月29日
別名 左近、民部
俳号:桃酔
戒名 常秀
墓所 栃木県那須郡那須町蘆野の建中寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 蘆野氏
父母 父:蘆野資泰
伊奈忠治
資親井上正房井上正次養子)
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蘆野 資俊(あしの すけとし)は、江戸時代前期の旗本交代寄合)・俳人蘆野氏19代当主。蘆野民部。


生涯

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正保3年(1646年)11月12日に10歳で家督を継ぎ、交代寄合那須衆の芦野2千700石を相続した。翌正保4年(1647年)9月6日に徳川家光御目見した。この資俊の代に、蘆野領内でそれまでに開墾した新田分を追加して、蘆野氏の知行地石高は3千10石となった。元禄4年(1691年)に芦野温泉神社を建立。

元禄5年(1692年)6月26日、死去。享年57。


俳人として

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資俊は俳人として最も著名な松尾芭蕉の門人、江戸蕉門の1人で、俳号を桃酔という俳人であった。

著名な旅行記『奥の細道』作中に、

「此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」(元禄2年(1689年)4月20日)

という記述がある。芭蕉は奥州への旅行の途上で、かつて門人の資俊が、西行が歌を詠んだ芦野の遊行柳を見せたいと言っていたので、蘆野領に立寄り句を詠んた。資俊はこの時江戸に在府していたため現地での案内はできず、代わりに芦野宿仲町の外れにあった「角の茶屋」の松本市兵衛に案内をさせている。「郡守戸部某」と書かれているのは、幕臣である資俊の人物名をぼやかす為であり、民部を戸部としたのは、民部を唐風の呼び名「戸部」に変えたのだと解釈されている。

元禄10年(1697年)編纂の『陸奥鵆』(編者天野桃隣)に、資俊作の「春雨や寝返りもせぬ膝の猫」という句が採録されている。