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艮御崎神社 (倉敷市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艮御崎神社


境内入口の鳥居

地図
所在地 岡山県倉敷市真備町川辺208
位置 北緯34度38分33.1秒 東経133度43分7.6秒 / 北緯34.642528度 東経133.718778度 / 34.642528; 133.718778座標: 北緯34度38分33.1秒 東経133度43分7.6秒 / 北緯34.642528度 東経133.718778度 / 34.642528; 133.718778
主祭神 須佐之男命大国主命建御名方命保食神宇賀魂命少名彦命八衢比古命天之御中主命大物主命
社格 旧村社
創建 不明
別名 氏神様
例祭 5月10日 - 春季祭典
10月第3土曜日 - 秋季祭典
地図
艮御崎神社の位置(岡山県内)
艮御崎神社
艮御崎神社
艮御崎神社 (岡山県)
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祭神と祭礼日
艮御崎神社の説明板

艮御崎神社(うしとらおんざきじんじゃ)は、岡山県倉敷市真備町川辺にある神社。通称は「氏神様[1]。旧社格は村社[1]

吉備津神社本殿の四隅に祀られている御崎宮のうち、「」(うしとら、の間=北東)に祀られている艮御崎宮を勧請したものである[2]

岡田藩伊東氏は、藩邸を岡田に移す前に川辺に藩邸を置いていたことから当社を特に崇敬し、毎年参拝して幣帛料をたびたび寄進している[3]。また、最後の藩主となった伊東長としは、1871年明治4年)5月、鳥毛の二筋、普通の槍三筋を奉納している[3]

参道入り口の右の標柱の「八雲絶唱大雅千古」、左の標柱の「一劍掃妖英武萬年」の文字は、1923年大正12年)犬養毅の書である[3]

祭神

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祭神は、須佐之男命大国主命建御名方命保食神宇賀魂命少名彦命八衢比古命天之御中主命大物主命[4]。数社を合祀しているため祭神の数が多い[3][注 1]

天之御中主命は、『古事記』に最初に登場する神であるが、抽象神のため祀っている神社はめったにない[3]

建御名方命は、官幣大社諏訪大社に祀られているが、諏訪神社を除いて祀っている例はあまりない[3]。大国主命の子ということになっていて、国譲りの談判のときに反対して、後に長野県諏訪まで逃げたという[3]

最後の大物主命は大国主命の別名である[3]

歴史

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勧請年月日等、由緒は定かではないが、棟札後陽成天皇慶長15年(1610年)3月、願主塩尻治右衛門と記されている[3]。その後、延宝4年(1676年)8月、宝永6年(1709年)、明和9年(1772年)8月および11月の棟札がある[3]

現在の建物は、1858年(安政4年)に再建されたものである[5]

1913年大正2年)3月1日、摂社稲生神社ほか数社を合祀した[1]

境内

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拝殿社務所がつながった社殿と、玉垣の上に石垣で囲まれた本殿が建っている[2]

ほかに大森宮、地神、疫神社、恵比須宮、荒神社の5つの境内社がある[6]

数社を合祀しているため、境内には鳥居が多い[3]

これらのほかに忠魂碑がある[7]揮毫陸軍大将一戸兵衛によるもの[7]

「艮」と「御崎」

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艮神社や御崎神社は吉備津神社系といわれ、古代吉備国岡山県広島県東部)内の各地に存在する[2]

」とは、十二支による方位のの中間にあたる北東の方角で、陰陽道などで神霊の訪れる方位とされることから、特に鬼門の意が込められることがある[8]

「御崎」は、「ミサキ」「オンザキ」「ゴンゼン」などと呼ばれているが、実は「御前」(ミサキ)のことである[3][注 2]。特定の鳥やけものが使いとして告げ、ミサキがいるなどといって生き物扱いする信仰を「ミサキ思想」といい、岡山県は特にこの思想が強い[3]

この信仰は、具体的で人間の身近にあり、激しく祟りやすく恐ろしいもの、その威力をもって外部の怨霊を退けて守護神となるもので、吉備津神社は早くからその威力が伝わっている[3]。吉備津神社本殿の北東に祀られている艮御崎宮の祭神は、鬼神温羅」といわれている[2]

温羅は、吉備津彦命に首をはねられて、その首が吉備津神社の御釜殿の下に埋められたとされており、そのは「丑寅みさき」と呼ばれて祀られている[10]後白河法皇により平安時代末期の治承年間(1180年頃)に編纂された歌謡集『梁塵秘抄』に、「一品聖霊吉備津宮…艮みさきは恐ろしや」と詠まれており、その名は平安京にまで知れ渡っていた[11]

艮御崎神社は、温羅を祭神として祀っている吉備津神社の艮御崎宮を勧請したものである[2]

主な祭事

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祭礼日は以下のとおりである[6][注 3]

  • 歳旦祭 - 1月10日
  • 春季祭典 - 5月10日
  • 秋季祭典 - 10月第3土曜日
  • 新穀感謝祭 - 12月1日

交通アクセス

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横溝正史作品と艮御崎神社

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艮御崎神社は、第二次世界大戦末期から3年余り吉備郡岡田村に疎開していた横溝正史が執筆した『車井戸はなぜ軋る』に描かれている、「かたしろ絵馬」が納められた絵馬堂がある「御崎様」のモデルの神社とみなされている[12]。ただし、艮御崎神社の通称「氏神様」[1]は、作品中の記載「御崎様」には合致しない。

一方、元真備町教育委員長で、横溝の疎開時、近隣に住んでいた中山薫は、『横溝正史研究 3』に旧岡田村鎮守である東薗神社を「御崎様ともいう」と記述しており[13]、こちらは作品中の記載「御崎様」に合致している。ただし、『車井戸はなぜ軋る』の舞台である「K郡K村」のイニシャルは、艮御崎神社の旧住所「吉備郡川辺村」に合致するが、東薗神社の旧住所「吉備郡岡田村」には合致しない[注 4][注 5]

また、『本陣殺人事件』で金田一耕助が磯川警部と「川―村」(=川辺村)の木内医院に入院している白木静子の聞き込みを終えて川辺の町を通り過ぎ、旧山陽道から「岡―村」(=岡田村)へ通ずる「一直線道路」(岡田新道)に差しかかった曲がり角で、「久―村(=久代村)へ行くのはこの道を行けばいいんですか」と尋ねた角の煙草屋は、艮御崎神社の標柱の西側が該当する[12]

周辺の史跡

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以下の史跡は、いずれも艮御崎神社の門柱が面している山陽街道(旧山陽道)沿いに設置されている。

川辺一里塚は川辺の渡し(高梁川右岸)にあったが、1907年明治40年)から始めた高梁川大改修が完成した1925年大正14年)に現在地に移転した[16]
川辺本陣は難波氏邸宅である[17][注 6]1978年に発見された「川辺本陣図」[19]から、川辺本陣が豪壮な邸宅であったことが確認できる[17]
川辺本陣一帯は1893年明治26年の洪水により大被害を受け、本陣そのものが流失してしまい、難波氏の資料も残っていない[17]
川辺脇本陣は日枝氏邸宅である[17]
脇本陣の建物は明治26年の洪水の際にも流失を免れ[20]明治時代村役場として利用されたが、その後廃家となり、1988年昭和63年)ごろ解体された[21]。現在は消防器庫となっている[21]

脚注

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注釈

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  1. ^ 祭神は拝殿左横の看板に記載されている。
  2. ^ 広辞苑』「み‐さき【御先・御前】」の (2) に、「神の使と信ぜられた動物。(ア)稲荷の異称。(イ)の異称。」と記載されている[9]
  3. ^ 祭事は拝殿左横の看板に、祭神の左に記載されている。
  4. ^ 作品の舞台である「K郡K村」のイニシャルは、艮御崎神社の旧住所「吉備郡川辺村」に合致することから、『巡・金田一耕助の小径ミステリーガイドブック』では『車井戸はなぜ軋る』の舞台は倉敷市真備町川辺(艮御崎神社の旧住所「吉備郡川辺村」)がモデルと判断している[14]
  5. ^ 『岡山ぶらりスケッチ紀行』(岡山文庫)には「車井戸はなぜ軋る(美作市)」の章で「K郡K村」は勝田郡勝田町(現・美作市)がモデルと判断すると記述されている[15]。その場合、美作市には艮御崎神社および御崎神社という名称の神社がないので、「御崎様」の名前だけを艮御崎神社または「御崎様」と呼ばれる東薗神社から借用したことになり、「K郡K村」と艮御崎神社の旧住所「吉備郡川辺村」および東薗神社の旧住所「吉備郡岡田村」との合致・不合致は『車井戸はなぜ軋る』には関係がないことになる。
  6. ^ 川辺本陣跡の説明版にも、川辺本陣が難波氏であることが記載されている[18]

出典

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  1. ^ a b c d 艮御崎神社”. 岡山県神社庁. 2023年8月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e 川辺地区社協だより 第45号 2021年(令和3年)11月 川辺地区社会福祉協議会
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、262-264頁。「艮御崎神社」 
  4. ^ a b c 艮御崎神社”. 八百万の神 日本の神社・寺院検索サイト. 2023年7月7日閲覧。
  5. ^ 小野克正、加藤満宏、中山 薫『真備町(倉敷市)歩けば』日本文教出版株式会社岡山文庫〉、2016年6月17日、75-76頁。「川辺を歩けば「艮御崎神社」 加藤満宏」 
  6. ^ a b 艮御崎神社”. 神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識. 2023年7月7日閲覧。
  7. ^ a b 陸軍大将一戸兵衛揮毫忠魂碑”. Google マップ. Google (2022年10月). 2023年7月23日閲覧。
  8. ^ 日本国語大辞典 うし‐とら【丑寅・艮】”. 広辞苑無料検索. 2023年7月7日閲覧。
  9. ^ 広辞苑 み‐さき【御先・御前】”. 広辞苑無料検索. 2023年7月7日閲覧。
  10. ^ 志野敏夫「古代の吉備における加耶について : 吉備・加耶交流史に関する覚書」『岡山理科大学紀要. B人文・社会科学』第35巻、2000年3月、37-45頁、CRID 10505642892258632962023年12月12日閲覧 
  11. ^ 平成29年11月20日 つるつる会 007 百田大兄命は御崎様?” (PDF). 里山活性化研究会「備中國大井郷昔小話」. 岡山市北区大井地区連合町内会 里山活性化研究会 (2017年11月20日). 2024年3月7日閲覧。
  12. ^ a b 『巡・金田一耕助の小径ミステリーガイドブック』(「巡・金田一耕助の小径」実行委員会、2021年3月31日増補改訂版)5ページ。
  13. ^ 江藤茂博、山口直孝、浜田知明 編『横溝正史研究 3』戎光祥出版株式会社、2010年9月10日、113頁。「横溝正史と桜の人々「秋祭りの共同作業参加」 中山薫」 
  14. ^ 『巡・金田一耕助の小径ミステリーガイドブック』(「巡・金田一耕助の小径」実行委員会、2021年3月31日増補改訂版)11ページおよび12ページ
  15. ^ 南 一平(画)、網本善光(文)『岡山ぶらりスケッチ紀行』日本文教出版株式会社岡山文庫〉、2011年6月25日、106-109頁。「車井戸はなぜ軋る(美作市)」 
  16. ^ 「川辺一里塚跡」説明板(川辺まちづくり推進協議会)より。
  17. ^ a b c d 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、481-487頁。「川辺本陣」 
  18. ^ 「川辺本陣跡」説明板(川辺まちづくり推進協議会)より。
  19. ^ 川辺宿本陣絵図 川辺宿関係絵図”. デジタル岡山大百科. 岡山県立図書館. 2023年7月11日閲覧。
  20. ^ 小野克正、加藤満宏、中山 薫『真備町(倉敷市)歩けば』日本文教出版株式会社岡山文庫〉、2016年6月17日、73-75頁。「川辺を歩けば「川辺本陣跡 - 脇本陣跡」 加藤満宏」 
  21. ^ a b 「第三回旧山陽道歩く会(2007年) 5月20日 歩こう、連ごう、旧山陽道」 旧山陽道歩こう会 (4) 解説 加藤満宏「川辺本陣」

関連項目

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外部リンク

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