胡傷
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公孫 胡昜(こうそん こしょう、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の武将・客卿(かくけい)。またの名を胡傷[1]・胡陽[2]とも。
経歴
[編集]華陽の戦い
[編集]昭襄王34年(紀元前273年)、趙と魏は韓の重要な城邑である華陽を攻めた。韓の相国は陳筮に頼んで秦に救援を求め、秦の昭襄王は白起を派遣し、秦の宰相の魏冄は客卿の公孫胡昜の軍を韓の救援に派遣した。秦軍は8日で華陽の戦場に到着し、不意を突かれた趙と魏の連合軍は秦軍に敗退し、魏は13万の将兵が首を討たれ、3名の将軍が捕虜となり魏将の芒卯は敗走し、趙将の賈偃も秦軍に敗れ2万の趙兵が黄河に沈められた[2]。秦はこの勝ちに乗じて魏に攻め入り、公孫胡昜は巻・蔡陽・長社を取り魏は南陽を差し出して秦と和を結んだ[3](華陽の戦い)。
閼与の戦い
[編集]昭襄王38年(紀元前269年)、公孫胡昜は趙の閼与を攻めるが、趙奢の奇策にはまり、大敗した[4](閼与の戦い)。この敗戦以後彼に関する詳細や記録は歴史資料には見られない。