肝付兼両
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代前期 |
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生誕 | 文政9年(1826年) |
死没 | 明治17年(1884年)8月13日 |
改名 | 兼両→兼赫 |
別名 | 通称:太郎、典膳、左門、兵部、丹波 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 島津斉興→斉彬→忠義 |
藩 | 薩摩喜入領主 |
氏族 | 喜入肝付氏 |
父母 | 父:肝付兼善、母:島津久䡄娘 |
兄弟 | 兼両、兼次、相良長発、小松清廉、山田司、島津勇四郎、吉利群吉 |
子 | 兼物、兼睦 |
肝付 兼両(きもつき かねふる)は、幕末の薩摩藩士。喜入肝付氏最後の(11代)当主。 小松帯刀の実兄。
喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。
生涯
[編集]文政9年(1826年)、肝付兼善の長男として生まれる。天保6年(1835年)藩主・島津斉興の加冠で元服。弘化2年(1845年)父の隠居により家督相続。
嘉永7年(1854年)勝岡地頭職となる。安政5年(1858年)演武館掛となる。以後、勘定奉行、大目付、若年寄と藩要職を歴任。文久3年(1863年)薩英戦争の際には、桜島で横山、赤水、烏島の砲台を指揮した。
明治2年(1869年)、版籍奉還により代々領した喜入領を新政府に返上。明治17年(1884年)8月13日没。享年57。
参考文献
[編集]- 「喜入村郷土史」
- 「肝付家文書」「伴姓肝付氏系譜」