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肝付兼両

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
肝付兼両
時代 江戸時代後期 - 明治時代前期
生誕 文政9年(1826年
死没 明治17年(1884年8月13日
改名 兼両→兼赫
別名 通称:太郎、典膳、左門、兵部、丹波
幕府 江戸幕府
主君 島津斉興斉彬忠義
薩摩喜入領主
氏族 喜入肝付氏
父母 父:肝付兼善、母:島津久䡄
兄弟 兼両兼次相良長発小松清廉山田司島津勇四郎吉利群吉
兼物兼睦
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肝付 兼両(きもつき かねふる)は、幕末薩摩藩士。喜入肝付氏最後の(11代)当主。 小松帯刀の実兄。

喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。

生涯

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文政9年(1826年)、肝付兼善の長男として生まれる。天保6年(1835年藩主島津斉興の加冠で元服。弘化2年(1845年)父の隠居により家督相続。

嘉永7年(1854年)勝岡地頭職となる。安政5年(1858年)演武館掛となる。以後、勘定奉行、大目付、若年寄と藩要職を歴任。文久3年(1863年薩英戦争の際には、桜島で横山、赤水、烏島の砲台を指揮した。

明治2年(1869年)、版籍奉還により代々領した喜入領を新政府に返上。明治17年(1884年)8月13日没。享年57。

家督は、長男・兼物が早世したため、兼睦が相続した。

参考文献

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  • 「喜入村郷土史」
  • 「肝付家文書」「伴姓肝付氏系譜」