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耶律善哥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

耶律 善哥(やりつ ぜんか、1213年 - 1264年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

生涯

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耶律善哥は末に自立して東遼を建国した耶律留哥の息子の一人で、耶律留哥の地位を継承した耶律薛闍(セチェ)の弟にあたる。1220年庚辰)に耶律留哥が死去した時、後を継ぐべき耶律薛闍はモンゴル軍に従軍して中央アジア方面で転戦しており、数年にわたって耶律留哥の妻の姚里氏が東遼の国政を代行していた。善哥は1226年丙戌)に西征から帰還したチンギス・カンの下を母親とともに訪れて耶律薛闍が本国に帰還できるよう請願し、耶律薛闍が本拠地に戻る代わりに耶律塔塔児(タタル)・耶律収国奴らとともにモンゴル軍に仕えることになった[1]

モンゴル軍に仕えた善哥はモンゴルタイ(蒙古歹)の名を与えられ、チンギス・カンの庶弟のベルグテイの子のクウン・ブカの軍に属した。1229年己丑)、第二次金朝侵攻が始まるとクウン・ブカの指揮下でこれに参加し、天城堡・鳳翔府を攻略する功績を挙げた。1232年壬辰)には3千の兵を率いて黄河を渡り、金朝の最終的な平定に寄与した。その後、クウン・ブカが第一次南宋侵攻の指揮官の一人となると引き続きこれに従い、光州・棗陽を攻略し千人隊長から広寧尹に移った。1264年至元元年)に52歳で亡くなり、死後は息子の耶律天祐が地位を継承した[2]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「庚辰、留哥卒、年五十六。妻姚里氏入奏、会帝征西域、皇太弟承制以姚里氏佩虎符、権領其衆者七年。丙戌、帝還、姚里氏携次子善哥・鉄哥・永安及従子塔塔児、孫収国奴、見帝于河西阿里湫城。帝曰『健鷹飛不到之地、爾婦人乃能来耶』。賜之酒、慰労甚至。姚里氏奏曰『留哥既没、官民乏主、其長子薛闍扈従有年、願以次子善哥代之、使帰襲爵』。帝曰『薛闍今為蒙古人矣、其従朕之征西域也、回回囲太子於合迷城、薛闍引千軍救出之、身中槊。又於蒲華・尋思干城与回回格戦、傷於流矢。以是積功為抜都魯、不可遣、当令善哥襲其父爵』。姚里氏拝且泣曰『薛闍者、留哥前妻所出、嫡子也、宜立。善哥者、婢子所出、若立之、是私己而蔑天倫、婢子窃以為不可』。帝嘆其賢、給駅騎四十、従征河西、賜河西俘人九口・馬九匹・白金九錠、幣器皆以九計、許以薛闍襲爵、而留善哥・塔塔児・収国奴於朝、惟遣其季子永安従姚里氏東帰」
  2. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「薛闍弟善哥、賜名蒙古歹、命従親王口温不花。己丑、従攻破天城堡・鳳翔府、以功襲充抜都魯。壬辰、引兵三千渡河、会大軍平金。後伐宋、抜光州・棗陽、由千戸遷広寧尹。至元元年卒、年五十二。子天祐、襲広寧千戸、改広寧県尹」

参考文献

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  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
  • 蓮見節「『集史』左翼軍の構成と木華黎左翼軍の編制問題」『中央大学アジア史研究』第12号、1988年
  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年
  • 元史』巻149列伝36耶律留哥伝
  • 新元史』巻134列伝31耶律留哥伝
  • 蒙兀児史記』巻31列伝13耶律留哥伝