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老子道徳経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
老子 (書物)から転送)
『老子』(馬王堆帛書乙本)
長春観太清殿の『老子道徳経』(武漢市

老子道徳経(ろうしどうとくきょう) は、中国春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』(繁体字: 道德經; 簡体字: 道德经; 繁体字: 道德經; 拼音: Dàodéjīng 発音)とも表記される。また、老子五千言・五千言とも。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。上篇(道経)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。

成立・伝来

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= 伝説上の老子道徳経

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『史記』老子韓非伝には老子道徳経について下記の伝承が記載されている。 老子はの苦県の人。姓は李氏、名は耳、字は伯陽,諡を聃という。[1]図書館の守蔵吏(司書)をつとめていた。孔子洛陽に出向いて彼に礼の教えを受けている。あるとき周の国勢が衰えるのを見て隠遁の志を起こしの背に乗って西方に向かった。函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜の求めに応じて五千言の書を書き上げた。それが現在に伝わる『道徳経』である。[2]

文献学上の老子道徳経

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しかし、現在の文献学では、伝説的な老子像と『道徳経』の成立過程は、少なくとも疑問視されている。[3]既に清の陳夢雷『欽定古今図書集成』では、老子に関する話はどれも俗説で嘘が多いとしている。[4]

近年ではそもそも論として老子の実在性すら怪しいということになった。まず、老子なる人物が実在した証拠がない。それどころか民間の伝説では老子は三皇五帝の頃からいた人物で、時代ごとに名前を変え、越では范蠡を名乗ったと言い、斉では鴟夷子を名乗り、呉では陶朱公を名乗っていたというが、すべて信用できないとしている。[5]日本の道教研究者の麥谷邦夫は、これを「老子転生説話」といっている。[6] つまり、老子は半ば伝説上の人物で、著者が特定できないのである。さらに、その人物が一人で『道徳経』を書いたということ自体が疑わしい。金谷治は老子の実在性を疑い、民間で言い伝えられたことわざや格言を集めたものではないかとしている。[7]

前述の、孔子が老子に教えを受けたという話の初出は『荘子』ではないかと言われている。しかし『荘子』の記述は寓話が多く、これもそのうちの一つであり、事実ではないと元の羅璧は『孔子師老聃弁』で指摘している。孔子の孫の孔鮒が編んだ『孔子家語』には、このような話が全く出てこないためである。[8]

『荘子』にたびたび登場している点から見て、老子の名は、当時(紀元前300年前後)すでに伝説的な賢者として知られていたと推測される。ただし、荘子以前に書物としての『老子道徳経』が存在したかは疑わしい。『道徳経』の文体や用語は比較的新しいとの指摘がある。たとえば有名な「大道廃れて仁義あり」の一文があるが、「仁義」の語が使われるのは孟子以降である。

一方で『韓非子』(紀元前250年前後)には、『道徳経』からの引用がある(ただしその部分については偽作説もある)。

現在有力な説では、『荘子』で言及されている伝説的な賢者の老子は『老子道徳経』の作者ではなく、『道徳経』はのちの道家学派によって執筆・編纂されたものであろうということである。金谷治は「要するに[老子の成立は]はっきりせず、現存の書物との結び付きで考えれば、[老子の成立は]戦国中期(前4世紀)よりさかのぼることはできない。」としている。[9]

出土資料

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出土資料としては、郭店一号楚墓から出土した戦国中期の残簡(郭店楚簡)が最古である。それに次ぐものとして馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子』甲・乙)がある。甲本は劉邦の「邦」を避諱しておらず、漢以前のものである。いっぽう乙本の方は破損が少ない。漢以降は北大漢簡敦煌文献がある。

注釈書

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注釈書としては、王弼の注と、河上公(実際は後世の何者か)の注が代表的である。王弼注と河上公注とは本文にも違いがある。

その他、江戸時代日本で主流だった林希逸『老子鬳齋口義』、唐初の傅奕編とされる『道徳経古本篇』、唐の玄宗皇帝御筆の『開元御注道徳経』、五斗米道の経典とされる『老子想爾注中国語版』、部分的に残存する漢の厳遵『老子指帰』などがある。名前だけ伝わるものも数百ある(例:『漢書芸文志に載る『劉向説老子』)。近代、世界的に古典と認識されてからは更に多く作られている。

内容

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形式

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『老子道徳経』は5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったもの。ただし馬王堆帛書では徳経が道経より前に来ている。

上篇37章、下篇44章、合計81章からなる。それぞれの章は比較的短い。章分けはのちの注釈者によるもの。

『道徳経』には、固有名詞は一つも使われていないことが指摘されている。

老子思想

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老子

老子の根幹の思想は「道」である。一章「道可道章」では以下のように述べている。このくだりは林希逸『道德真経口義』が「此の章一書の首に居り、一書の大旨は皆な此に於いて具われり」といっており、古来老子の思想の根幹とされた。[10]

道可道,非常道。名可名,非常名。無名,天地之始,有名,萬物之母。常無,欲以觀其妙;常有,欲以觀其徼。此兩者,同出而異名,同謂之玄。玄之又玄,衆妙之門。(第一章)
大意は「道というものは名付けられるものではない。道とは無である。無こそが天地のはじめである。無は万物の母である。無の玄妙なことは幽玄にして不可思議である」という。[11]

そして道とは無為自然によって得られるといい、「人為を用いない政治をせよ」と説いている。[12]第三章の「不尚賢章」では下記の無為自然の政治について語られている。

 不尚賢 使民不爭 (賢に誇らなければ民を争いあわせることもない。)[13]
 不貴難得之貨 使民不爲盗 (得がたい財貨に価値を与えなければ、民に盗みをさせることもない。)
 不見可欲 使心不亂 (欲しくなるかもしれない物も、見なければ心は乱れない。)
 是以聖人之治 (だから聖人の政治の下では、)
 虚其心 實其腹 (人為という意思を用いず、信念を固めて無為の政治が行われる。)[14]
 弱其志 強其骨 (余計なことを考えず、骨肉は頑強である。)[15]
 常使民無知無欲 (常に民には何も知らせず、そして何も欲させるな。)
 使夫知者不敢爲也 (余計な知を働かせず)[16]
 爲無爲 則無不治 (人為を用いない無為の政治をすれば必ず世の中はうまくいく。)[17](道徳経3章「不尚賢章」)

朱子学ではこれは権謀術数に富んだ政治思想であり、「人民は無知のまま生かしておくのが最も幸せである」とする思想、ひいては愚民政策であり、蘇秦張儀のような縦横家に近い考え方で、秦の始皇帝が悪用したとの解釈をしている。[18] また、老子に於いては儒教的価値の批判ないし相対的視点の提示をこころみている。たとえば、以下にあげるように、仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さは、現実にはそれらがあまりに少ないからもてはやされるのであって、大道の存在する理想的な世界おいては必要のない概念であると述べる。

  大道廢 有仁義 (偉大な「道」が廃れてはじめて仁義が現れる。仁義の話が出るときには道が廃れている証拠である。)
  智慧出 有大偽 (人間が利口になると反面、詐欺やなにかが流行りだす。こうなると智慧がとりたざされる。大いなる欺瞞だ。)[19]
  六親不和 有孝慈 (父、母、叔父、伯父、叔母、伯母の六親の仲が悪いときに限って孝行や慈悲がもてはやされる。)
  國家昏亂 有忠臣 (国家が混乱しているときに限って、率直に君主を諫める忠臣が認識されるようになる。)(道徳経18章「大道廢章」)
老子は儒家に対して反発、反論した内容が多い。このため後世、「儒家がいなければ老子は何も言う必要がなかった」[20]とか、「老子は所詮、儒家のアンチテーゼに過ぎなかったため、中国思想史では常に脇役だった」[21]と言われるようになった。

老子のその他の章句

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「飢饉というものは年のめぐり合わせによる異常気象で発生する自然現象である。しかし民衆の生活を破壊する飢饉は、君主が自分の消費のために税収の目減りを我慢できず、飢饉でみんなが困っている時に、税をさらに重くして、なお余計に奪い取ろうとする《食税》から発生するのである。これが民の飢饉の惨害の本当の原因なのだ(人之饑也 以其取食税之多 是以饑)」(帛書『老子・乙本』第七十七章)

の振る舞いに於いては、何か不足すれば、余っているところから補われて全体のバランスが保たれる。ところが人間の制度はそうではない。欠乏している人民から高い税を取り上げて、すでにあり余って満ち足りている君主に差し上げる。どこかの君主がそのあり余る財力で、天下万民のために何かをしてくれるとしたら、それこそ有道の君主と評価できるのにねえ(天之道 損有餘而益不足 人之道則不然 損不足以奉有餘 孰能有餘以取奉於天者 唯有道者乎)」(第七十九章)

「強大な覇権国家の君主は自分の言いなりに搾取できる家畜のような人間の数を増やしたいから、他国を侵略するのだ。弱小国家の君主は、せめて我が身、我が国を尊重してくれるならばと、超大国に屈従して、身売りの算段をしているだけだ。結局、戦争とか平和というものは君主たちの意地の張り合いだけで、民衆のことなんか何も思ってやしないんだから、まあ勝手にしたらよかろう(大國者不過欲兼畜人 小國者不過欲人事人 夫皆得其欲)」(第六十一章) 

「道義によって君主を補佐するならば、軍事力の強大さによって天下の人々を従わせようとはしないことだ。そうすれば天下の人々はきっと道義をもって応じてくれよう。軍事的な圧力をかけると周囲に茨が生えたように反抗する勢力も起きてくるようになり、戦争は結局、進めば進むほど自分も傷ついていく、茨の道だということがわかるようになる(以道佐人主 不以兵強於天下 其事好還 師之所處 荊棘生之)」(第三十章)

「戦争がうまい将軍は感情に左右されない。兵法がうまくて、いつも最善の勝利を確実にできる将軍は、戦争そのものをしない。人を使うことに巧みな人は、何ごとも謙遜してへりくだった姿勢をとる。これが何事も争わない『不争之徳』というものであり、人々の力を用いるコツであり、天道に配慮した方策で、聖人君子の政治理念である(善戰者不怒 善勝敵者弗與 善用人者爲之下 是謂不爭之徳 是謂用人 是謂配天 古之極也)」(第七十章)

「聖人はいつも私心を持つことがなく、民全体の心を自らの心と(して、政治の決断を)する。(聖人恒無心 以百姓之心為心)」(第四十九章)

「災禍の原因は、仮想敵国となるライバルがなくなって、油断しきってしまうことが最も大きい。強力なライバルがいなくなったら、本来活用すべき人材、提案、発明、万物を生かす知恵など、君主が宝とすべきものが時代にそぐわない無用の長物として排斥されて、回復できなくなってしまう(禍莫大於無敵 無敵近亡吾寶矣)」(第七十一章)

「知らないことを知ることは進歩であり、その積み重ねは立派なことだ。反対に、何も知らないくせに知ったかぶりしているというのは虚栄であり、精神の病理に由来する(知不知 尚矣 不知知 病矣)」(第七十三章)

「魚介類をたくさん水揚げしたからといって、集めておいても長く保存できるものではない。すぐ腐ってしまう。宮殿の部屋いっぱいに金器・玉器の宝物が並んでいても、それが代々にわたって受け継がれたという例はない。他の諸侯や盗賊が宝物を目当てに奪い取りに来るからだ。すでに地位も高く、十分に財産もできたというのに、驕りたかぶって、さらに欲望のかたまりになる、そんなことでは自分から墓穴を掘って、晩節を汚すことになろう。世の中で十分にやりたい仕事をしたと思ったら、その後は引退して世の人々の邪魔にならないように、恩返しのために生きるのが、天の定めた人生の道というものだ。(湍而群之 不可長保也 金玉盈室 莫能守也 貴富而驕 自遺咎也 功遂身退 天之道也)」(荊門郭店楚簡『老子・甲書』)

「世の中の肩書きと人生はどっちが大切か。自分の生命を犠牲にするほどのお金や品物があるものか。物欲を満たすこと、人生に挫折すること、どちらが大問題なのか。人や物事を非常に愛すると、必ず無理をして、たくさんの費用をかけることになる。多くの富を集めすぎると、必ずその富を奪い取られた人々の怨恨と憎悪も集中する。したがって物事は、ある程度で満足して、変な欲を出さないでおけば、めったに恥辱をうけることはないし、ある程度で見切りをつけて、あえて危険に踏み込まなければ、何も心配することはない。だから長く安定を維持できるのである(名與身孰親、身與貨孰多 得與亡孰病 甚愛必大費 多藏必厚亡 故知足不辱 知止不殆 可以長久)」(荊門郭店竹簡『老子・甲書』・帛書『老子・乙本』第四十四章)

古い老子の思想について

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帛書『老子 甲・乙』では、「甲篇 徳」、「乙篇 道」となっていた[22]。これが「道」・「徳」の順になったのは後漢(西暦25年-220年)のころと推定され、章別にされたのは異説もあるが3世紀なかごろとされる[23]。また、老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、この書は、その系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという説や、老子は3人いたという説がある。「道」の内容についても、哲学的な句から、独断的な処世術の句までが混在している。そのため、老子なる人物が生きて著作したであろう時代よりも、もっと古くから伝わっていた名言を、『老子』の編集者は、その著作に取り入れた、とする見解がある[24]。また、古い老子道徳経は、五千字余りしかないにもかかわらず、「甲篇 徳」、乙篇 「道」の順序に分けられている。そのように構成されたのは、本の内容や本の章分けがその原因とはなっていない、と推察されている。老子道徳経が生まれた経緯について考えた場合、古くから伝わっていた諺や名言を作成した人物らがいて、その編集や解説をした人物が「徳篇」を形成し、そこで述べられた道の思想を、増幅した形で「甲篇 徳」、乙篇 「道」の形に編纂した人物らがいた、ということが考えられる。古い構成を逆転させ、現在のような「道」から始まり「下篇 徳」の形に定着させたのが、老子道徳経であると考えられる要因の一つには、第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が作成した、と見られていることがあげられる[25]

中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである[26]。そのため、老子道徳経における「道」の概念について見る場合、最初の著者か、その思想に準じた別の著者の思想を合わせたものを、老子道徳経における「道」として検討してゆくことが妥当であるといえる。これを帛書『老子』にあてはめた場合、現行の「下篇 徳」を筆頭に考えることができる。そして、その中でも「建言よりの引用」と記されている部分が、かなり古い『老子』の思想であると見ることができる。

老子の「道」の区分

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老子道徳経の場合、「道」についての記述は、四種の思想・人物に区分できる。

普遍的法則としての道

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道と無為とを同一視して考える。また、道を「象」ではなく、「物」として見る。 第21章では、道は音もなく形もない、さわることもできない、とされている。そして、その目的とする「物」にゆきついたとき、人は忽然となり、それを何よりも大きく感じるのである[27]

根元的実在としての道

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道は無と有の反復運動の中に、全体的な実在として表象される。 反とは道の動とされ(40章)、道は循環運動を永遠に続けているとされる[28]

処世術としての道

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権謀的で、処世術でしかない道。 第3章の、「民の志を弱めることによって、彼らの骨を強固にしてやる。つねに民をして、無知無欲であるようにしてやる」という言葉は、したたかな権謀とも解せるものである。36章、48章、57章、59章にも同様な処世術がある[29]

政治思想としての道

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他の政治思想と相対する、政治理念でしかない道。 第18章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が、作成したと思われる[25]。また、第57章にある聖人は、「無私」によって聖人としての「私」を成就する、というこだわりが、無為自然と一体となるということと、別次元の関係にある。ここでは、事実上、聖人の存在などはほとんど必要ないといえる[30]

「上篇 道」にのみ特有の、諸家への対抗意識について

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墨子は、天が意志を持つという「天志」説を主張した。老子は、「天地不仁」とし、天道自然説を考え出した[31]

常の道
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第一章の、「道の道とすべきは常の道にあらず」という句は、儒家の説くような、仁義などの人のよるべき道を指すのではない[32]

鄭の子産は、「天道は遠く、人道は近し」と人道と天道を区別している。「論語」には、「父の道」、「先王の道」、「忠恕の道」、「天下の道」、「学の道」、「吾が道」などの用例がある[33]

天帝
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第四章の、「道は、・・・万物の宗なるに似たり、・・・象は帝の先にあり」という句の、天帝は、ふつう万物を生成する造物主と考えられている[34]。帝は、一般に信仰されている神様のことを指す[35]。この神には、地上の支配者である王が仕えているとされる[36]

仁義
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第五章「天地不仁」の句は、儒家の「仁義にもとづいて民衆を治めよ」という主張への反論となっている[36]

第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句は、孟子と同時期か、あるいはその後輩と同時期の篇者が、作成したと思われる。孟子はもっぱら仁義を主張した[25]

「上篇 道」にのみ特有の、思想上の矛盾点について

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天地
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上篇では、しばしば、「天地」と「道」を同一の概念として用いている[37]。冒頭の「無名は天地の始め」という句と比較した場合、無は道に該当し、天地は万物のこととなる。そのため、上篇における「天地」と「道」を同一とする思想には、矛盾が含まれていると見ることができる。

下篇には天地という語は出てきておらず、「万物」や、「天下」という語が用いられている。「天下」という語は、「世界」と訳されている。[38]

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第四章の、「道は、・・・万物の宗なるに似たり、・・・象は帝の先にあり」という句で、帝の字はこの部分以外には、出てこない[39]。帝は通常、「天帝」と訳される。この場合、「帝」と「天」が、同一となるという矛盾を含んでいる。

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第五章の、「聖人は仁あらず、百姓を非情に扱う」の句は、67章の「我に三宝あり、一にいわく慈」という言葉とくい違っている。また、49章の「聖人は、善人も不善な人もそれぞれに尊び、愛し、いずれも捨てない[40]、という言葉とは大きく異なっている。

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第十八章の、「大道廃れて仁義あり」の句で、「大道」という用例は下篇には出てこない。また、「大道」が「道」のことを言うのならば、道が廃れることはありえないので、この句には、内容がないといえる。

第七章の、「天は永遠であり、地はいつまでもある」[41]、という句を、「道」に照らして解釈すると、「天は永遠ではなく、地はいつまでもあるわけではない」という解釈になる。

第二十五章の、「道大、天大、地大、王大」の句において、政治に無為自然を言うにもかかわらず、君主を大として承認しているのは矛盾している、という見解がある[42]。また、「道」の観点からすると、「道大、天大、地大、王大」の中で大と名づけて意味があるのは、「道」のみであるということになる[注 1]

第二十五章の、「有物混成」において、道は物ではなく、象である。

「建言」に見る、実在としての道

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道は、この現象界を超えたところで、現象界を生起させ変化させる一者として考えられている。それは、すべての現象をそうあらしめている原理としての性格と、宇宙生成論的な発生の根源者という性格の二面が融合していることが知られている[43]

「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。[44] [注 2][注 3]

「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている[28]。あらゆる存在は、「」として、「」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。

「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。

「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである[45]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。

上徳(道の徳)は、徳のようには見えない。(第38章)。

不言の教について
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「不言の教と無為の益は天下之に及ぶもの希なり」とあり、不言の教と、無為の益とは、世の中でそれに匹敵するものはほとんどないとされる。(第43章)。

慈悲の教えについて
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人々の心を心とする(第49章)、というのは、人々の苦しみの心を自分の心とするという意味がある。また、「聖人は、善人も不善な人もそれぞれに尊び、愛し、いずれも捨てない[40]、という言葉には、道の徳と合一した慈悲の教えが表されている。 第67章には、「我に三宝あり、一にいわく慈」という言葉がある。

「道」に想定される人格性

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古代中国において、は超人的な宇宙の支配者として絶対視された。中国が天を畏敬するようになったのは、紀元前1700年頃よりのこととされる[注 4]。また、商時代(前1500年頃)には、人々は鬼神を崇拝していた。人は死んでも霊魂は滅びず、鬼神となるとされていた[46]

老子にとって、「道」と「天」とは、置き換えられないものであった[47]。しかし、老子は、第4章においてのみ、神格化された天帝の存在によって、世界の秩序が始まったとする見解を述べている[39]。そして、52章に言う「天下の母」は、「一」のことであるとされている[48]。「牝」ではなく、「母」とされているところから、ここには、何らかの人格的な意味合いが含まれていると見ることができる。また、39章において、「」はこの世界で働く妙なる「」であるとされている[49]

主な成語

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影響

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『道徳経』が荘子に影響を与えたかどうかは疑わしい。しかし、後の荘子学派(『荘子』外篇・雑篇)や、道家(『淮南子』など)には影響を与え、荘子と老子の思想は「老荘思想」として統合されることになった。

智の否定思想は韓非子などの法家の愚民政策に引用された。無為による政治思想は、「黄老思想」として漢代の張良陳平曹参などに実践された。老荘思想は文化面で大きな影響を中国や日本に及ぼした。俳諧の分野では荘子に想を得る表現が多用された。19世紀以来『道徳経』は、ヨーロッパ各国語に相次いで翻訳。寺田寅彦のエッセイにドイツ語で『老子』を読んでの親しみやすさについて記載があり[50]、少数だが戦前は、インテリ層の間で欧文での訳注が認知された。戦後、英語圏の文献を通じタオブームが日本に伝わり、古典中国への新たな取り組みとして広く支持された。

井筒俊彦英訳で『老子 Lao-Tzu The way and its virtue』(慶應義塾大学出版会、2001年。日本語訳は下記)がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 大がつくと無限の意味が加わる場合がある。(出典:蜂屋邦夫訳『老子』岩波文庫、2008年。P200 注11
  2. ^ また、古い本では、「建言」に言及している第41章は、現行の第40章(道の動について触れている核心部分)の前に来ている。(出典:蜂屋邦夫訳『老子』岩波文庫、2008年。P193 注1)
  3. ^ 「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』金谷治訳、平凡社、1973年。P22 注2)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。42章には、「私もまた、教えの父として、凶暴な者はよい死に方をしない、という諺を語ろう」、と編集者自身のことを記している。吾という語は無為自然と一体となっていない感じがするし、よい死に方という価値観は、無為自然にかなった死に方と表現すべきところであるように見受けられる。
  4. ^ こうした天への畏敬は、儒教の時代に天道として発展した。(出典:林田慎之助『タオ=道の思想』講談社現代新書、2002年。P31)

出典

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  1. ^ 陳夢雷『欽定古今図書集成』理学彙編・経籍典・第431巻「老子部彙考一」1725年より。
  2. ^ 諸橋轍次『中国古典名言事典』講談社学術文庫、1979、P317
  3. ^ 諸橋1979及び、『日本大百科全書』「老子」の項目(執筆金谷治2015
  4. ^ 陳夢雷1725、原文では「欲正定老子本末,故當以史書實錄為主,并老仙經祕文以相參審,其他若俗說,多虛妄。」
  5. ^ 陳夢雷1725、原文では「上三皇時為元中法師,下三皇時為金闕帝君,伏羲時為鬱華子, 神農時為九靈老子,祝融時為廣壽子,黃帝時為廣成子,顓頊時為赤精子,帝嚳時為錄圖子,堯時為務成子,舜時為尹壽子,夏禹時為真行子,殷湯時為錫則子,文王時為文邑先生,一云《守藏史》。或云在越為 范蠡,在齊為鴟夷子,在吳為陶朱公,皆見於群書,不出神仙正經,未可據也。」」
  6. ^ 『世界大百科事典』「老子」執筆者は麥谷邦夫
  7. ^ 金谷2015
  8. ^ 陳夢雷1725
  9. ^ 金谷2015
  10. ^ 諸橋1979及び林希逸『道德真経口義』、以下の章の題名は林の書による。
  11. ^ 諸橋1979
  12. ^ 諸橋1979
  13. ^ 林希逸『道德真経口義』
  14. ^ 諸橋1979
  15. ^ 王弼の注によれば「骨無知以幹、志生事以亂,心虛則志弱也。」とあり、志が生じれば心が乱れるので、心を虚しくして肉体を頑強にするの意であるという。
  16. ^ 王弼の注によれば「知者謂知為也。」とあり、余計な知を働かせないの意である。
  17. ^ 諸橋1979
  18. ^ 陳夢雷1725
  19. ^ 林希逸『道德真経口義』及び諸橋1979
  20. ^ 森三樹三郎の説。
  21. ^ 加地伸行『儒教とは何か』中公新書
  22. ^ 蜂屋『老荘を読む』、pp. 74-75.
  23. ^ 蜂屋『老荘を読む』、p. 76.
  24. ^ 世界の名著4 老子 荘子』小川環樹解説、中央公論社。P14
  25. ^ a b c 宇野哲人『中国の古代哲学』講談社学術文庫、2003年。P145
  26. ^ 森三樹三郎『老子・荘子』講談社学術文庫、1994年。P165
  27. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』小川環樹解説、中央公論社。P17
  28. ^ a b 蜂屋邦夫『老荘を読む』、P114
  29. ^ 蜂屋邦夫『老荘を読む』、P134
  30. ^ 蜂屋邦夫『老荘を読む』、P116
  31. ^ 許抗生『老子・東洋思想の大河 道家・道教・仏教』徐海訳、地湧社、1993年。P26
  32. ^ 『中国古典文学大系4 老子』金谷治訳、平凡社、1973年。P3 注1
  33. ^ 許抗生1993。P31
  34. ^ 『中国古典文学大系4 老子』金谷治訳、平凡社、1973年。P5 注3
  35. ^ 宇野哲人『中国の古代哲学』講談社学術文庫、2003年。P132
  36. ^ a b 野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川ソフィア文庫、2004年(以下略)。P45
  37. ^ 野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』、P48
  38. ^ 『中国古典文学大系4 老子』金谷治訳、平凡社、1973年。P43章
  39. ^ a b 小川環樹訳『老子』中公文庫、1973年(以下略)。P13 の注
  40. ^ a b 小川環樹『老子』、P96 の注
  41. ^ 小川環樹『老子』、P18
  42. ^ 宇野哲人『中国の古代哲学』講談社学術文庫、2003年P155
  43. ^ 『中国古典文学大系4 老子』、平凡社、1973年。P488、金谷治解説
  44. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社。P117の注
  45. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』小川環樹・注、中央公論社。P114
  46. ^ 許抗生1993。P112
  47. ^ 『世界の名著4 老子 荘子』小川環樹解説、中央公論社。P22
  48. ^ 小川環樹『老子』中公文庫、1973年。P101 の注
  49. ^ 蜂屋邦夫訳『老子』岩波文庫、2008年。P187 注2
  50. ^ 変わった話」―「電車で老子に会った話」、岩波版『寺田寅彦全集 第四巻』所収

参考文献

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  • 『老子』武内義雄訳注、岩波書店岩波文庫〉、1943年。 復刊1988年ほか。
  • 『老子』木村英一訳注・野村茂夫補注、講談社講談社文庫〉、1984年10月。 
  • 『老子』阿部吉雄・山本敏夫訳注、明治書院新書漢文大系2 新版〉、2002年7月。ISBN 4625663113 渡辺雅之編、元版は『新釈漢文大系7 老子・荘子 上』
  • 『老子』小川環樹訳注、中央公論社〈中公文庫 改版〉、1997年3月。ISBN 4122028140 
  • 『老子』小川環樹訳注、中央公論新社中公クラシックス〉、2005年4月。ISBN 4121600770 
  • 『老子』蜂屋邦夫訳注、岩波書店〈岩波文庫〉、2008年12月。ISBN 4003320514 
  • 『老子』蜂屋邦夫訳注、岩波書店〈ワイド版岩波文庫〉、2012年4月。ISBN 4000073494 
  • 『老子』福永光司訳注、筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2013年1月。ISBN 4480095136 
     元版は『世界古典文学全集17 老子・荘子』筑摩書房
  • 『老子 全訳注』池田知久訳注、講談社〈講談社学術文庫〉、2019年1月。ISBN 4065131596 
※以上は原典訳・注解

外部リンク

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