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羽仁有繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
羽仁有繁
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文24年10月1日1555年10月16日
別名 通称:右衛門尉
官位 越前守
主君 大内義隆義長
氏族 清和源氏満政流羽仁氏
父母 父:羽仁有直
兄弟 有繁藤直治郎右衛門、海蔵寺某、美濃守兵部尉、女
養子:藤直(有繁の弟)
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羽仁 有繁(はに ありしげ)は、戦国時代武将大内氏の家臣。羽仁氏は、厳島神主家配下の神領衆であり、安芸国佐伯郡草津己斐[1]を領知し、草津城を居城とした国人

生涯

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羽仁有直の嫡男として生まれ、大内義隆に仕えた。毛利元就とも縁があって懇意にしており、出陣の際に有繁は度々元就の供をしていたという。天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢に討たれると、有繁は大内義長に仕えた。

天文23年(1554年)の防芸引分で毛利元就は陶晴賢と袂を分かった。元就と懇意にしている上に、晴賢が元就に勝利するとは思えなかった有繁だったが、武道の義理を違えて晴賢に背き、元就に味方をすることは出来ないとして、晴賢へ味方すると決めた。一方で養子とした弟の藤直には元就に味方するよう言ったが、藤直は父子が敵味方に分かれる有繁の提案を断った。そのため、藤直の嫡男で当時3歳の就智を元就に預け、就智が成人した際に御用に立つようなら毛利氏の家臣とすることで羽仁氏が断絶しないよう元就へ依頼し、有繁と藤直は居城である草津城と所領を無血で元就へ引き渡して、周防国山口へと退いた。

弘治元年(1555年)の厳島の戦いでは晴賢と共に厳島へ渡って毛利方の宮尾城を攻撃したが、毛利軍の奇襲攻撃によって敗北。晴賢は再起を図って山口に逃れようとし、晴賢を追撃する小早川隆景の軍を三浦房清がよく防いだが、赤川元保榎本賢忠粟屋源三が小早川軍を助け、三浦房清は二宮俊実によって討ち取られる。三浦房清を討った小早川隆景らは追撃を再開したが、ここで有繁と藤直は500の兵を率いて追撃を阻止した。しかし、吉川元春が来援し、有繁と藤直は出羽元祐の部隊に討ち取られた[2]

脚注

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  1. ^ 現在の広島県広島市西区草津己斐
  2. ^ 閥閲録』巻48「羽仁右衛門」家譜では、有繁と藤直は切腹したと記されている。

参考文献

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