美川英二
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生年月日 | 1933年8月17日[1] | ||||||||||||||||||||||||||||
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出身地 | 日本 大阪府三島郡千里村 | ||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 1999年6月19日(65歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||
死去地 | 日本 東京都新宿区 | ||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 慶應義塾大学法学部 | ||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||
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美川 英二(みかわ えいじ、1933年8月17日 - 1999年6月19日)は、日本のラグビー選手、実業家。元横河電機社長。
来歴
[編集]大阪府三島郡千里村(現:吹田市)出身で吹田市立千里第二小学校を卒業した[3][4]。慶應高校に入学。高校時代よりラグビー部に所属した[4]。1952年に慶應義塾大学法学部に入学し[1]、蹴球部(ラグビー部)に所属した[4]。
大学を卒業した1956年4月より横河電機製作所 (現:横河電機) に入社してからも同社ラグビー部に所属して海外での試合にも出場した[4]。横河電機では測定器及び人事部に所属されてキャリアを積み、人事部長やシステム営業本部長を経て[5]、1976年6月に取締役に就任した[1] が、入社20年目での取締役就任は横河正三に次ぐ2番目の早さであった[3]。
1982年6月に常務取締役、1983年4月に常務取締役兼営業統括部長、1985年7月に代表取締役常務、1986年6月に代表取締役専務、1991年6月に代表取締役副社長を歴任[1]。1993年6月より代表取締役社長に就任した[1]。1983年には常務として北辰電機製作所との合併を手掛け、社長時には山一證券(1997年11月自主廃業)の職員から36歳以上を中心に25名の雇用を受け入れる決断を行った[3]。
1999年6月19日午後1時10分、東京都新宿区の病院で胆管細胞癌により死去した[6]。6月21日に横河電機社葬が行われた[3]。
エピソード
[編集]- 副社長在任中の1990年より美川の主導で横河電機サッカー部(現:東京武蔵野シティFC)の強化に乗り出してブラジル人監督や選手の補強を行い、1994年1月に自らJFL入りを目指すと宣言した[7]。なお、サッカー部は全国社会人サッカー選手権大会(1993年)や全国地域サッカーリーグ決勝大会(1998年)での優勝を経て、美川が死去した1999年にJFLへ昇格した。
- 長らくゼネラル・エレクトリック社のCEOを務め、「伝説の経営者」と呼ばれたジャック・ウェルチは、美川のことを彼こそ経営の神様だと高く評価していた。美川の経営手法は終身雇用を最重視し、企業の適正規模は今のコンピューター社会でも2000人までが限度と説き、総務課までをも社内分社化するというもので、「リストラ」や「ダウンサイジング」を重視したジャック・ウェルチとは真逆のものだった。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 横河電機株式会社 有価証券報告書(1998年3月期)、2016年2月15日閲覧
- ^ “【時代のリーダー】美川 英二・横河電機社長”. 日経ビジネス (2009年4月13日). 2016年2月15日閲覧。
- ^ a b c d 「横河電機社長 美川英二さん(惜別)」朝日新聞、1999年7月22日、2015年2月15日閲覧
- ^ a b c d “美川英二君 追悼”. 千里山会 (会報三号). 2016年2月15日閲覧。
- ^ 「編集長インタビュー」朝日新聞、1997年11月29日、2015年2月15日閲覧
- ^ 「美川英二氏 死去」朝日新聞、1999年6月22日、2015年2月15日閲覧
- ^ 「Jリーグ加盟、視野に 外国選手迎え強化」毎日新聞、1994年1月12日、2015年2月15日閲覧
関連項目
[編集]ビジネス | ||
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先代 山中卓 |
9代目:横河電機社長 1993年 - 1999年 |
次代 内田勲 |