美山貫一
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みやま かんいち 美山 貫一 | |
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生誕 |
1847年12月2日 、長州萩藩 |
死没 |
1936年7月29日(88歳没) 日本、神奈川県鎌倉市 |
国籍 | 長州藩→ 日本 |
別名 | 内藤匡二郎 |
出身校 | 山口兵学校、三田尻兵学校 |
職業 | 長州藩士、牧師(メソジスト派) |
美山 貫一(みやま かんいち、1847年12月2日(弘化4年10月25日) - 1936年(昭和11年)7月29日)は、日本の牧師である。元長州藩士。
生涯
[編集]長州藩士時代
[編集]1847年(弘文4年) 長州萩藩士内藤氏の次男として生まれる。元服後の名前を内藤匡二郎といった。
1867年(慶応3年) 三田尻兵学校で兵学を学ぶ。そして、松下村塾の吉田松陰にも影響を受けた。
1871年(明治4年) 美山家を相続して、美山貫一になる。同年海軍兵学校を受験するが不合格だったので、上京して陸軍省に勤めた。
渡米・入信
[編集]1875年(明治8年) 渡米する。サンフランシスコにいるときに、M・C・ハリスによってキリスト教に入信し、洗礼を受ける。
メソジスト派牧師
[編集]1884年(明治17年) 帰国する。
1885年(明治18年) 再び渡米する。当時、移民した日本人の酒癖の悪さ、愚行にへきえきした現地人から日本人排斥運動が勃発しており、社会問題となっていた。美山は外交官でハワイ州領事 安藤太郎に出会い、禁酒こそが日本人を救う唯一の手段であることを説き、婦人の「酒樽事件」もあって安藤太郎は改心。また夫妻をキリスト教へ導いた。
1888年(明治21年) ハワイのホノルルにハリス合同メソジスト教会を創立[1]。
1890年(明治23年) 名古屋メソジスト教会(現・日本基督教団名古屋中央教会)の牧師になる。
1893年(明治26年)4月 銀座美以教会(現・日本基督教銀座教会)に転任。初代牧師・小方仙之助の後をついで、第2代目の牧師になる[3]。同年。外交官、安藤太郎、小児科医師 角倉賀道、日本キリスト教婦人矯風会とともに「日本禁酒同盟」を設立。全国の小学校への「禁酒・禁煙」を説き、各地で講演会を開催し、小学校の教師を集め啓蒙を行った。その活動はすさまじく多くの中毒者を回帰させ、その後の日本の目覚ましい経済的発展につなげた。
1903年(明治36年) 鎌倉メソジスト教会(現・日本基督教団鎌倉教会)の初代牧師になる。引退後も鎌倉に住み、同地で死去する。墓所は鎌倉五山の一つに数えられる寿福寺にある。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ “ハリス合同メソジスト教会日本語部”. ハリス合同メソジスト教会日. 2018年10月1日閲覧。
- ^ 『銀座教会百年史』. 日本基督教団銀座教会. (1994年4月25日). p. 44
- ^ 『銀座教会百年史』. 日本基督教団銀座教会. (1994年4月25日). p. 28
- ^ 『銀座教会百年史』. 日本基督教団銀座教会. (1994年4月25日). p. 63
関連項目
[編集]- 遠山元一 - 信徒
- 安藤太郎 外交官 クリスチャン 牧師 熱烈な信徒となり「日本禁酒運動」で日本人の退廃を救済した。
- 山田三七郎 名古屋で小学校教師をしていた際にキリスト教入信。導きにより天然痘ワクチン事業に生涯をささげた。
- 角倉賀道 小児科医師 東京神田駿河台で医院を開設。大流行で多数の死者をだした天然痘と闘う。