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羅蕙錫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羅ケイ錫から転送)
羅 蕙錫
各種表記
ハングル 나혜석
漢字 羅蕙錫
発音: ナ・ヘソク
日本語読み: ら・けいしゃく
ローマ字 Rha Hye-sog
English: Na Hye-sok
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羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語나혜석1896年4月28日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、作家、詩人、ジャーナリスト[1]本貫羅州羅氏[2]。現在の京畿道水原市八達区出身[3]女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家[4]で近代朝鮮文学における最初の女性作家とも評される[4]。女性解放論者であり、女性解放のための運動や朝鮮独立運動にも参加していた[5]。初名は児只、字は明順、号は晶月。

来歴

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1896年4月、父・羅基貞と母・崔是議の間に五人兄姉の二女として京畿道水原に生まれた[6]。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった[7]。幼名は兒只(アジ=子供を意味する)、幼児期は明順(ミョンスン)と呼ばれ、日本留学時から蕙錫、号は晶月(チョンウォル)と名乗った[8]。1906年8月、10歳のとき妹と近所のサミル女学校[注 1]で学んだ。成績優秀で、特に絵が上手かった[8]進明女子高等学校朝鮮語版に進み、1913年3月に主席で卒業した[9]

二番目の兄・景錫のすすめで、同年4月に東京女子美術学校に入学し[9]、磯野吉雄や岡田三郎助、足助恒らの指導を受けて[10]西洋画・油絵を学んだ[11][4]

1914年、夏休みに帰国した折、父の命令で結婚を迫られたが、拒絶した[12]。従わなければ学費を出さないと言われたため、一年間、休学して母校の進明女高で教師となり、学費を得て日本に戻った[12]

当時の朝鮮人学生たちは男女を問わず自由に交流しており[11]、兄・羅景錫の友人の崔承九(チェスング)、廉想渉(ヨムサンソプ)、李光洙(リグァンス)たちや「在東京朝鮮女子留学生親睦会」を通じて金瑪利亜(金マリア)、黄愛徳(黄エスタ)、劉英俊(ユ・ヨンジュン)らとも出会った[11]。詩人であり慶應義塾大学で初めて史学を学んだ朝鮮人、崔承九とは恋愛関係となったが、崔承九は1916年に肺病で急死した[13][14]

留学中に日本の新女性運動やヨーロッパの新しい思想に接して「新女性」としての意識が高まり[12]平塚らいてう与謝野晶子ヘルマン・ズーダーマン作『故郷』の主人公マグダやイプセン作『人形の家』の主人公ノラに傾倒した[12]。日本への初の女子留学生、尹貞媛(ユンジョンウォン)の「良妻賢母論」を否定し、男女平等を主張した[4]。18歳で書いた「理想的婦人」(『学之光』1914年12月掲載)は近代的女権論として知られている[15]。劉英俊や[14]金マリアらと[11]韓国最初の女性雑誌『女子界(ヨザゲ)』を発行し[16]、「晶月」のペンネームで[11]「瓊姫」(けいひめ・キョンヒ、1918年3月)を掲載した[11][17]

1918年に女子美術学校を卒業した[4][11]。京都・鴨川の風景を描いたとされる卒業作品は火災のため残っていない[18]。1919年には三・一運動に参加し5か月間の投獄を経験した[12][19]

1920年に金雨英と結婚した[18]。兄の友人だった雨英は[20]、妻の死後日本に留学し、京都大学で法学を勉強し弁護士になった人物で[21]、蕙錫の10歳年上で子どもが二人いた[20]。蕙錫は兄の負担にならないよう結婚を承諾したが、いくつかの条件を提示した。「一生自分だけを愛し自分の芸術活動を自由にさせてくれること」「夫の前妻との間に生まれた娘や姑とは同居しないこと」「自分の亡き恋人である崔承九の墓に参り、彼のために碑を立てること」といった条件を金雨英はすべて受け入れた[20]

結婚した蕙錫はソウルで画業に専念し[18]、1921年4月、臨月の体で朝鮮初の油絵展覧会・個展をソウルで開き[4][11][22]、同月長女を出産した[10]。1922年から始まった朝鮮美術展覧会(鮮展)には6年連続で入選し[10]、1926年には「天后宮」が特選に選ばれた[22]。鮮展は文化政治の一環として始まり、出品資格は朝鮮人のほか、朝鮮に6カ月以上滞在している日本人にも与えられ、審査委員は多くの著名な日本人画家が交代でつとめた[10]。第1回には西洋画で61人が入選、そのうち朝鮮人は蕙錫を含めて3人で、女性は蕙錫だけだった[10]

1921年9月、雨英が中華民国安東県(現在の丹東市)の副領事となり、現地に移った[18]。同年の婦人衣服改良問題では、『東亜日報』紙上でチマチョゴリの欠陥を指摘した金一葉に対して同じく紙上で反論した[23]。安東へ行ってから2児を授かった[10]

1927年、雨英の副領事勤務が終わり、欧米への「僻地勤務を勤めたものに与えられる慰労旅行」が与えられた[10]。1927年から1929年まで、幼い3人の子どもを70歳の姑に託し、雨英と2人で欧米旅行にでかけた[20]。雨英がドイツやイギリスで学んでいる間、蕙錫はパリで美術館巡りをしながら自由に過ごした[20]。絵の勉強に来ている朝鮮人留学生と交流し、天道教の指導者崔麟(チェリン)と恋愛関係になった[15][24]。1929年3月、夫婦は帰国した[10]。同年6月に4人目の子どもが生まれた[10]。崔麟との関係が雨英に知られて1930年に離婚した[15][25]。財産分与はなく子どもの親権も剥奪された[25]。離婚の経緯を『離婚告白状』と題して小説にし[24]、1934年、雑誌『三千里』に発表した[26][27]。崔麟が「離婚後、生活一切の面倒を見る」との約束を果たさなかったことに対して訴訟を起こし世間の話題となった[28]

1931年、パリのクリュニー美術館を描いた「庭園」が鮮展で特選となり、日本の帝国美術院展覧会(帝展)でも入選した[10]。1933年に展覧会に出品するために描いた絵は、火災で340点のうち10点余りを残してほとんど失われた[15]。ソウルに「女子美術学舎」を開設するが、経営はすぐに行き詰まった[10]

1944年、ソウルの慈済院(養老院)に入り[29]、1948年12月10日に死去した[29]

評価・顕彰

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1988年、小説「キョンヒ」が発掘され、韓国社会で彼女の再発見・再評価が進んだ[10]。郷里水原には彼女の銅像が立ち[10]、2000年には「羅蕙錫通り」がつくられた[30]。生誕百年にあたる2016年には、水原市立アイパーク美術館で展覧会「時代の先駆者、出会う」が開かれた[10]

著書

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  • 『羅蕙錫全集』
  • 『羅蕙錫作品集』
  • 『羅蕙錫遺稿集』
  • 『閨怨』
  • 『怨み』
  • 『母と娘』
  • 『瓊姫』
  • 『玄淑』
  • 『離婚告白状』
  • 『生き返った孫娘』

作品

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  • 「自画像」
  • 「舞姫」
  • 「裸婦」
  • 「風景画」

参考文献

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  • 井上和枝「一九二○〜三○年代の朝鮮社会と「新女性」の恋愛・結婚」(PDF)『比較家族史研究』第15号、比較家族史学会、2000年、45-68頁、CRID 1520572359157666048 
  • 呉香淑『朝鮮近代史を駆けぬけた女性たち32人 教科書に書かれなかった戦争part 50』梨の木舎、2008年。ISBN 978-4-8166-0801-8 
  • 盧桂順『朝鮮女性史 歴史の同伴者である女性たち』東京図書出版、リフレ出版、2020年4月。ISBN 978-4-86641-298-6 

関連文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 梨花学堂を設立したメアリー・F・スクラントン英語版が創ったミッション系学校[8]

出典

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  1. ^ 羅蕙錫 韓国偉人伝”. KBS World. 2012年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月4日閲覧。
  2. ^ (82)나주 나씨(羅州羅氏)-108,139명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年9月15日). 2022年8月17日閲覧。
  3. ^ 나혜석(羅蕙錫)”. 釜山歴史文化大典. 2022年11月9日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 呉 2008, p. 83.
  5. ^ 都心の中の小さな憩い場 - 水原(スウォン)中国伝統庭園、孝園公園「粤華苑(ウォルファウォン)」”. 京畿道海外広報. 2012年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月4日閲覧。
  6. ^ 盧 2020, pp. 240–241.
  7. ^ 盧 2020, p. 240.
  8. ^ a b c 盧 2020, p. 241.
  9. ^ a b 盧 2020, pp. 241–242.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 朝鮮最初の女性西洋画家・羅蕙錫”. 日本美術会. 2023年3月3日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h 盧 2020, p. 242.
  12. ^ a b c d e 盧 2020, p. 243.
  13. ^ 盧 2020, pp. 243–244.
  14. ^ a b 呉 2008, p. 84.
  15. ^ a b c d 呉 2008, p. 87.
  16. ^ 李南錦「植民地朝鮮の「新女性」と母性イデオロギーへの闘い 羅蕙錫の小説「瓊姫」と彼女の言説分析を通して」『ジェンダー研究 お茶の水女子大学ジェンダー研究センター年報』第9号、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター、2006年3月29日、39-57頁、CRID 1050001202950690688 
  17. ^ 呉 2008, p. 88.
  18. ^ a b c d 呉 2008, p. 85.
  19. ^ 呉 2008, pp. 84–85.
  20. ^ a b c d e 盧 2020, p. 244.
  21. ^ 井上 2000, p. 58.
  22. ^ a b 呉 2008, p. 86.
  23. ^ 呉 2008, p. 89.
  24. ^ a b 盧 2020, p. 245.
  25. ^ a b 盧 2020, pp. 245–246.
  26. ^ 呉 2008, p. 91.
  27. ^ 井上 2000, p. 60.
  28. ^ 盧 2020, p. 246.
  29. ^ a b 盧 2020, p. 247.
  30. ^ 江種満子「1910年代の日韓文学の交点 <白樺>・<青鞜>と羅蕙錫」『文教大学文学部紀要』第20巻第2号、文教大学、2007年3月1日、1-25頁。 
  31. ^ 彼女への共感”. WAN Women's Action Network. 2023年3月4日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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