置始大伯
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(置始多久から転送)
時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 多久 |
主君 | 天武天皇→持統天皇 |
氏族 | 置始連 |
置始 大伯(おきそめ の おおく[1])は、飛鳥時代の人物。名は多久とも書く。姓は連。
654年に遣唐使の一員として唐に渡り、翌年帰国。672年の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側についた。693年に窃盗の罪に問われたが、壬申の乱のときの功に免じて赦された。
出自
[編集]置始氏(置始連)は物部氏族に属する神別(天孫系)氏族で、物部大新河(物部十市根の兄弟)の後裔とする[2]。中世の大和国衆・布施氏が置始姓を称した。
経歴
[編集]白雉5年(654年)2月、高向玄理を押使、河辺麻呂を大使とする遣唐使の一員(遣唐判官)となった。このとき大伯の位は小乙上であった。この遣唐使は斉明天皇元年(655年)8月に帰国した。
『日本書紀』の壬申の乱のくだりに置始大伯の名は現れないが、次に述べる窃盗事件の詔で、大海人皇子側で活躍したことがわかる。
持統天皇7年(693年)4月22日、盗みの犯人として大伴男人、置始多久、菟野大伴を、見逃した罪で巨勢邑治を裁く詔が下された。具体的内容は記されていないが、罪に問われた官人の役職から、官物横領と思われる。置始多久はこのとき鍵を管理する典鑰であった[3]。位一階を下げ、官を解かれることになったが、壬申の年の功によって特別に赦され、贓物の返済だけでよいとされた。