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置始大伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
置始多久から転送)
 
置始大伯
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
別名 多久
主君 天武天皇持統天皇
氏族 置始
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置始 大伯(おきそめ の おおく[1])は、飛鳥時代の人物。名は多久とも書く。

654年遣唐使の一員として唐に渡り、翌年帰国。672年壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側についた。693年に窃盗の罪に問われたが、壬申の乱のときの功に免じて赦された。

出自

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置始氏(置始連)は物部氏族に属する神別(天孫系)氏族で、物部大新河(物部十市根の兄弟)の後裔とする[2]。中世の大和国衆・布施氏が置始姓を称した。

経歴

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白雉5年(654年)2月、高向玄理押使河辺麻呂大使とする遣唐使の一員(遣唐判官)となった。このとき大伯の位は小乙上であった。この遣唐使は斉明天皇元年(655年)8月に帰国した。

日本書紀』の壬申の乱のくだりに置始大伯の名は現れないが、次に述べる窃盗事件の詔で、大海人皇子側で活躍したことがわかる。

持統天皇7年(693年)4月22日、盗みの犯人として大伴男人、置始多久、菟野大伴を、見逃した罪で巨勢邑治を裁く詔が下された。具体的内容は記されていないが、罪に問われた官人の役職から、官物横領と思われる。置始多久はこのとき鍵を管理する典鑰であった[3]。位一階を下げ、官を解かれることになったが、壬申の年の功によって特別に赦され、贓物の返済だけでよいとされた。

脚注

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  1. ^ 旧仮名遣いでの読みは「おきそめのおほく」
  2. ^ 新撰姓氏録』右京神別
  3. ^ この事件を記す『日本書紀』にある典鑰の官名は編纂当時のもので、当時は別の名であったのではないかという説がある。森田悌『天武・持統天皇と律令国家』(同成社、2010年)88頁。

関連項目

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